なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

困ってるのになぜ人は笑うのか?

A君がC子さんに何かを伝え、その場を去っていった。
あとからZ君が現れC子さんに言葉をかける。

Z君「どうしたの?その苦笑いは」
C子「あっ。見てた?いつからここにいるの?」
Z君「さっき来たばかりだけど、だいたい予想はつくよ。苦笑いが消えないねー」
C子「うん…………わたし、困ってるのにどうして笑ってるんだろう?」
Z君「苦笑い・泣き笑い・照れ笑い・愛想笑い。どれもアンヴィバレントな感情(表情)の造語だね」
C子「この苦笑いの場合は、わたしは困ってるんだけどA君のことも傷つけたくないという気持ちの表れね」
Z君「泣き笑いは、わたしは哀しいけどあなたを責める気は全然ないっていう感じかな」
C子「照れ笑いの場合は、わたしは恥ずかしいけど、あなたたちを責めてるわけじゃない、でしょ」
Z君「愛想笑いに至っては、わたしは楽しいわけじゃない、だけどあなたのことは邪険にはできない、となるわけだ」
C子「苦笑い=苦+笑いと分解できるけど、これって(わたしは困ってる)+(あなたを傷つけたくない)になるわ」
Z君「なるほど。泣き笑い=泣き+笑い、で(わたしは哀しい)+(あなたを責めない)になるね」
C子「残りも省略した表記で、照れ笑い=照れ(わたし)+笑い(あなた)。愛想笑い=愛想(わたし)+笑い(あなた)というように(わたしの内面)+(あなたへの思い)というかたちをとるわね」
Z君「そうか。○○笑い=(わたし)+(あなた)だね。でも、(わたしの気持ちの発露)+(あなたへの配慮)というふうに○○笑い=(発露)+(配慮)ともまとめられるね」
C子「ええ、それでもいいわ」
Z君「知的考察がひと段落したところで、さっきのA君との会話は教えてもらえないのかな?」
C子「いいわ。じつは…………A君、競馬で摩って今月の食費がなくなったから、融資してくれないか?だって」
Z君「はは。そっちのほうか。思わず苦笑だな」
C子「その場合は、苦笑=苦(想像してバカみたいだったなオレ)+笑(きみたちは悪くないよ)かしら」
Z君「苦笑=苦(オレはA君のこと馬鹿か?って怒ってる)+笑(でもA君は悪い奴じゃない)かもね」

(i3)

null²は現代の奪衣婆か

大阪・関西万博に設置されていた、シグネチャーパビリオン「null²」。
残念ながら抽選に外れてしまったので、ダイアローグモードを体験することは叶わなかったが、YouTubeに公開されていた映像を見ることはできた。

www.youtube.com

その映像を見て感じたことをつらつらと書いてみる。

ダイアログモードは、鏡とLEDに囲まれた巨大空間(ミラールーム)内でデジタルヒューマンとの対話を行う、劇場型のメインモードです。来場者は事前にスマートフォンアプリ「Mirrored Body®」等を使って自らの身体を3Dスキャンし、自分自身のデジタル分身(アバター)を生成します。この3DスキャンデータはAI技術と統合されて「Mirrored Body®」と呼ばれる唯一無二のデジタルヒューマンを形成し、NFT/ブロックチェーン技術によってその個性が保証されます。こうして生み出された「自分の鏡像的なAI分身」こそが、対話相手となるデジタルヒューマンです。

https://note.com/ochyai/n/nef86e66d7463

null²来場者は、自身の身体を3Dスキャンして作った自身のデジタルアバターと対話し、その過程で世界と自分が記号化される。やがてその「記号」を剥がれ落とす儀式が始まり、最後は「さようなら」で終わる。この一連の流れは、まるで冥界への通過儀礼を見ているようだ。

先日、新宿御苑前の太宗寺で「奪衣婆(だつえば)」像を見た。日本の死後世界では、亡者は三途の川のほとりで奪衣婆に衣を剥がされる。それは、現世での身分や欲望という「衣」を脱ぎ捨て、来世へと移るための儀式だ。肉体から離れ、個としての「私」が一度リセットされる。

私はnull²の映像を見て、奪衣婆のことを思い出した。null²の中で、人はデータ化され、情報の海の中に分解される。そこでは、名前も年齢も性別も消え、ただの存在の痕跡になる。そして最後には、その痕跡すら剥がれ落ちる。奪衣婆が肉体の衣を脱がせるように、AIが私たちのデジタルの衣を脱がせていく。

そのとき、人間(あるいは私)は少し恐れを感じるだろう。人は、生きるあいだに何層もの記号をまとう。名前、肩書、写真、SNSのアイコン、履歴、語り方。それらは束の間の自己の衣であり、他者との関係のなかで形づくられた顔。それを脱ぎ捨てるとき、私たちは「これが自分だった」という形が消えていく。そのことに、耐えがたい喪失を感じるだろう。奪衣婆に衣をはぎ取られる亡者の心情も、これに近いのではないか。衣そのものに未練があるのではなく、「衣をまとっていた時間」への未練が残る。

仏教的に言えば、これは「縁起」に近い。どんな記号も単独ではなく、関係の中でしか存在しない。記号が消えても、関係の記憶は残る。だからnull²の森のなかで、AIアバターはこう語りかける。

「おさなごころの君は、僕が覚えておくから、変わっていっていいんだよ」

曼荼羅の中では、消えることさえも全体の一部である。つまり、「記号を懐かしむ心」は、再び関係を結びなおすための第一歩でもあるのだ。

落合陽一さんのnull²は、単なるゼロではない。データが存在しないこと、意味が付与されない状態──つまり「空(くう)」である。空は、無ではない。すべて消えるが、関係だけが残る。それは、『華厳経』の「事事無碍法界」が説く、あらゆるものが互いに関係しあい、隔たりなく存在する世界を思わせる。

曼荼羅は、宇宙のあらゆる関係を可視化した図である。中心と周縁、生と死、存在と非存在が円環の中でひとつにつながる。null²は、その曼荼羅をテクノロジーで再構築した空間として万博に現れた。

私たちは、この世界から消えることを恐れながらも、同時にそれをどこかで望んでいるのかもしれない。null²は、その相反する感情を慈愛の心で受けとめ、自分との別れを祝福へと転じるデジタル曼荼羅なのかもしれない。

(真)

擬人化とは?@Real Café

 ヒューマノイドロボットをどんどん人間に似せて創ってゆく過程のある時点で、私たちには不気味に感じられるようになり、更に人間そっくりというほど似せていくと再び親しみを感じられるようになるという(不気味の谷現象)。
 しかしこれは実験室・研究室での出来事であり、もし自分の部屋にぬいぐるみがあり、それをどんどん人間に似せていけば、ある時点から不気味さを感じ、それはもはや再び親しみを感じるということはないだろう。
 人間は自分以外の人には警戒心をもつものだから、一度芽生えた警戒心は解けることがない。いってみれば〈不気味のがけ現象〉だろう。

 ロボットを創るというような人がおこなう〈理系の擬人化〉は要素をピックアップして行う分析・統合型のものだろう。ロボットを創るのであれば、人間の条件といえるものを何百とピックアップして、それらを要素として持つようにするのである。
 一方〈文系の擬人化〉とは、統合されたものをそのまま受け取り、統合したまま出力するという過程で行われる。たとえば俳句の季語に「山笑う」というのがあるが、ああいったものを生み出す場合がそれにあたる。
 問題はAIを作る過程で発生する。何故ならAIは機械だから〈理系の擬人化〉をもっておこなわれるが、目標は人間なので〈文系の擬人化〉をするようなものに仕上げなければならないからである。この矛盾がAIをいっそう注目の的とする。

 長年使い古した道具には〈親しみ〉を感じ、人間性をそれに付与することがある。道具のような無機物に人間性を混ぜるので不気味なものとなる。たとえばそれは「唐傘お化け」であり「いったん木綿」であり「ぬりかべ」である。
 だが、もとはといえばそれらは〈親しみ〉を感じたものたちなのだから、単に不気味だというわけではない。それがこれら日本の妖怪に温かさを感じる理由なのだろう。

鉄腕アトム』『ブレードランナー2049』などマンガ・アニメ・小説・映画などで人間になりたがるロボットの姿を描いたものには枚挙にいとまがない。そこには、人間は人間存在を無条件で愛するべきだし、人間はいいものだというメッセージを感じる。

 世阿弥の『風姿花伝』では、「役になり切ってはいけない。役と自分は違うからこそ似せようと努力し、その結果素晴らしい役を演じることが出来るのだ」というようなことが述べられる。
 それだから未来のロボットは人間以上に人間らしいものとなるかもしれない。

(i3)

猫可愛がり

外出から戻り、玄関に入ろうとすると、見慣れた太った猫が、そそくさと走り去って行った。
しまちゃん―我が家で勝手にそう呼んでいるその猫は、夏の間、エアコンの室外機をベッドにしていた。この室外機は昼寝用、あの室外機は就寝用と決めているかのごとく、いつも決まった時間帯に、決まった場所でくつろいでいた。
昼寝をする室外機のある場所には屋根があり、夏の強い日差しを避けられ、風も通る。
一方で、就寝ベッドにしている室外機が置かれた場所は風が通るだけでなく、恐らくしまちゃんにとって、安全で安心できる場所なのだろう、と想像している。

我が家の庭には、実にさまざまな猫が出入りする。
野良猫たちが縄張り争いを繰り広げるため、季節ごとにその顔ぶれが入れ替わるのだ。
灰色猫が闊歩していたかと思えば、次の季節には黒猫が悠然と歩いている。
当然、にらみ合いの状況を目にすることもある。
野良猫の世界は厳しい実力社会で、まさに弱肉強食。
餌を得られるかどうかも、子孫を残せるかどうかも、喧嘩の強さで決まってしまう。
その様子は哀しいかな、若い猫が圧倒的に有利で、怪我や病気で弱れば、撤退するしかない。
しまちゃんは、そんな猫同士の喧嘩にはいつも負けてしまう。
にらみ合いになると早々に身を引き、どこかへ行ってしまう。
しまちゃんは、地域猫なのである。

「しまちゃんは、野良猫とは思えない太りっぷりだね。」
家族のみんながそう言う。確かに太りすぎて、動きが鈍い。
それは、機敏な動きをする猫のイメージをずいぶん裏切る。
それでも、近所の人たちはしまちゃんをとても大切にしている。
あるおうちではお水と朝食を提供し、あるおうちではランチを、あるおうちではおやつを、あるおうちでは夕食を―。
あちこちで可愛がられている。まさに地域の人々によって猫可愛がりされているのだ。
野良猫同士の喧嘩に負けて縄張りを奪われても、人間による保護が結果的にしまちゃんの居場所を守っている。
餌に困ることはない。
多少不細工であろうと、動きが鈍くて喧嘩に弱くても、“ニャー”と愛嬌を振りまけば、近所の誰かが必ず餌をくれる。

最近は、猫は室内で飼うことが推奨されている。
いわゆる「大切にされている」飼い猫は屋外に出されることはない。
それは、喧嘩による怪我や、感染症などの病気のリスクを避けるためでもある。
感染症予防のワクチンも、栄養バランスの取れた餌もすべて科学医療的に計算され、
定期的に獣医さんを受診するような生活。
さらに“チュール”といったおやつまである。
猫を飼うと、人間の方が猫に対して精神的な下僕になりやすいのではないかと思ったりもする。「猫にとって、人間の飼い主は“自分より多少大きな猫“くらいにしか思っていない」と、とある獣医さんから聞いたこともある。
この物価高の世の中で、エンゲル係数よりニャンゲル係数の方が高い、なんてこともあるかもしれない。それでも猫を飼いたいと思うのは、“愛する対象”が欲しいからではないだろうか。

子どもが巣立った後の高齢者が猫や犬を飼うのは、
もうかつてのように子どもには注ぐべきではないとわかっている愛情を、
動物に向けているように思える時がある。
もちろん、植物に愛情を注ぐ人もいれば、別のことに愛情を注いでいる人もいるだろう。
人間には、“愛する対象”が何か必要なのかもしれない。
親離れできない子どもは問題にされる一方で、
子離れできない親もまた問題である。
それをわかっている親は、子どもが巣立った後の行き場のない感情を、そうして静かに開放している部分もあるのではないだろうか。

野良猫、地域猫、飼い猫―猫それぞれに猫生があり、幸せのかたちもまた、それぞれに違うのだろう。
我が家は人間のお世話で手一杯で、動物を飼う余裕はない。
それでも庭にやって来てくれる猫たちには、少なからず癒されている。
しまちゃんは人間でいえば生活習慣病のような肥満体で、
健康を思えば、餌は与えないほうが、むしろ親切で愛情深いのでは―と私は思ってしまう。
近所の人の話によれば、しまちゃんは夕食を二軒から頂いているらしい。
そうなると、我が家にできることは、さしずめ“寝床の提供”くらいであろうか。
今年は順当に9月下旬から秋が訪れ、
最近は朝晩めっきり冷え込むようになった。
室外機で眠るしまちゃんを見かけなくなったなぁと思っていたところ、
近所の家の軒下に、風雨をしのげる毛布とベッドが置かれているのを見つけた。

(てんとうむし)

編集部よりお知らせ:11月15日「かわいいとは」特設ページ(コメント募集)

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11月15日の哲学カフェのテーマは「かわいいとは」でした。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

カフェで話題に上ったトピック

  • 「かわいい」の核心は「愛」と「パーソナルな関係性」にあり、守備範囲が広い
    • 「かわいい」は、対象にささやかなりとも愛を感じるときに使う言葉であり、「きれい」や「美しい」とは異なる。
    • 対象に対する経験やストーリー、情報が増えるほど「かわいさ」に厚みが生まれ、親密な感情となる。
    • 美しさ、綺麗さは狭い範囲、かわいいは対象が広い
    • 深い意味を考えず、プラスの感情が生まれた対象を「かわいい」と表現する
  • 「かわいい」には客観的な「正解」がなく、創造性(クリエイティブ)が伴う。
    • 「美しい」に正解があるのに対し、「かわいい」は自分で作っていける価値観であり、キモかわいい、グロかわいい(ミャクミャク、オカザえもん等)といった多様なものを受容し、醜さや嫌悪感を逆転させる力がある。
  • 「かわいい」は「弱さ」「欠落」「不完全性」を受容し肯定する感情である。
    • 「かわいい」は自分より弱いもの、無抵抗なものに対して言うことが多く、できない子や不器用さに手をかける苦労が愛着を上げる。
    • 社会の成熟に伴い、多様なものや受け入れがたいものも「かわいい」という言葉で受容されるようになった。
  • 「かわいい」は対象との距離が極めて近く、「尊敬」や「憧れ」の対象とは対極にある。
    • 「かわいい」は自分との距離が近い存在に対して感じるものであり、完璧で洗練された人には「かっこいい」「尊敬」が適用される。
    • この近さが、「食べちゃいたい」「潰したい」といったキュートアグレッションの衝動(愛着が攻撃性と結びつく現象)を生む。
  • 「未熟なかわいい」と「成熟したかわいい」という二面性がある。
    • 未熟なかわいい(子どものままの愛着)は、対象を下に見る本能的な感情につながりやすい。
    • 成熟したかわいいは、自分の不完全性や弱さを認めた上で、他者の純粋性を尊重・尊敬する姿勢から生まれる。
  • 「かわいい」には、自己表現としての追求と社会的制約がある。
    • 「かわいい」がジェンダーを押し付けたり、何かを評価する基準として利用されたりすることへの違和感が示された。
    • 一方で、人から「かわいい」と言われることは、特に若い世代にとって「未熟」と評価されたと感じ、必ずしも褒め言葉として受け取られない場合がある。

進行役のコメント

可愛いという言葉を発する側、受ける側、双方の立場で深い意見を聞けて良い場でした。