なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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洗脳のすゝめ

先日、中国共産党による同化政策が問題視されているチベットの特集(現地取材)番組を見ました。

正直、私にはそこに映し出されていた光景が印象的に、しかして不気味に映りました。

何故なら、同化政策により文化も信仰も捨てさせられた、ある種、国によって「洗脳」されたチベットの人の姿が、「キャリアアップして自己実現したい」と語るその姿が、非常にありふれた現代日本人的に見えたからです。

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「皆さんは、自分が洗脳されていると思いますか?」
 
こう質問されると、だいたいの人は…いえ、哲学好きな皆様は「そう思う」とか「その可能性は否定できない」と仰るかもしれませんが、それでも恐らく「私は自分の意思で考えていて、洗脳されてなどいない」と答える人の方が、世間的には多数なのではないかと思います。

まぁ厳密に言えば「洗脳」の定義は「身体的拘束をして物理的な力で価値観を変える行為」を指すようなので、身体的拘束が無いことを根拠に「洗脳」も無いと主張できるかもしれません。

しかし、冒頭で言及したチベットにおける子供の同化政策の現場はただの「学校」でした。

生徒は皆、親から離され下宿…という点においては間違いなく「身体的拘束」が伴っていますが、将来、親世代も既に洗脳済になれば、親子を引き離す必要もなくなるでしょう。

そう解釈すれば、日本に生まれた子供も、親や社会という支配下からは逃れる術を持たない訳で、学校現場に拘束される様は「洗脳」と言っても差し支えないかもしれません。

それに、もっと直接的な「洗脳」の現場として、一部の自己啓発セミナーや企業研修などは明確に身体的拘束や集団心理が伴う代物であり、実際問題として日本社会の割とありふれた所にも「洗脳」はあると思います。

また、現代のネット社会特有の現象として、家庭や企業に精神的にも身体的にも拘束され、心身共に弱っている所にネット上で救済の光に映る特定思想に出会い陶酔する、「身体的拘束者」と「洗脳者」がバラバラに存在するようなケースも、間接的な「洗脳」現象であると形容できるかもしれません。

ここで、個人的にポイントだと思うのは、「洗脳」は世間一般で言われるような「思考停止」とは一概に言い難い側面があるということです。

恐らく本人としては、他ならぬ自分の意思で思考していると自認しているのでしょう。

しかし、その思考が無意識に常識・当然という名の箱で囲われており、その箱庭の外に出ることができず、外の情報は社会的に遮断されているか、例え触れる機会があっても「おかしい、嘘だ、危険だ」などと自ら跳ね除けてしまう、それが「洗脳」だと思うのです。

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さて、前述のような代物が果たして「洗脳」の定義に即しているのか否かは兎も角、そんな風に「洗脳」を考えてみると、私達も決して他人事ではないと思うのです。

実際、「チベット」や「中国共産党」という文字を伏せて、あるいは「中国共産党」を適当な大企業名にでも置き換えて、冒頭で言及したチベットの特集番組を見ると、現代日本人にはむしろ、チベット文化特有の、信仰に重きを置き貧しい遊牧生活を続けようとする人の姿の方が「親や社会,宗教に洗脳されている」と映るかもしれません。

同化政策に洗脳されて自己実現に目を輝かせ、豊かな文明社会で生きる人の姿の方がむしろ「洗脳から開放された」と映るかもしれません。

私達が世界に目を向けて「政治や宗教に洗脳されている」と考える時、その人達もまた、私達の姿に目を向けて「民主主義や人権思想に洗脳されている」と考えるかもしれません。

私達は他ならぬ私達自身の意思で、主体的にそれらが素晴らしいものであると考えているつもりが、実は常識の刷り込みや知識の囲い込みによって、目に見えぬ箱庭の中で思考したつもりに陥ってしまっているのかもしれません。

「洗脳されているからこそ、洗脳に気付けない」という可能性は否定できないでしょう。

…まぁもっとも、普通はこんなことを考える必要などないとは思うのですが、「疑うことを是とし、本質を探求し続ける」のが哲学のようですから、「この常識や思考は、既に洗脳済の産物である」という観点から、疑念を抱いてみるのも一興かもしれません。

…何ならそこから更にもう一歩踏み込んでみて、

「皆が好き勝手に生きたら皆が足を引っ張り合って損をするのだから、集団としての統一性を生むことで、皆が恩恵を享受できるようになる洗脳は悪いことなの?」

などという所まで考えを巡らせてみるのも一興…かもしれません。

尚、当方は一切責任を持ちませんので、あしからず。

(※チベットの件は警察権力まで含めた国家的な強制力が働いているのが大問題なのであって、それを単純な思想問題に矮小化し、日本社会と同列視するのは極めて乱暴な議論だと思います。が、今回の話はあくまでもそれを大前提とした上で、思考実験的なものとして認識・お付き合い頂けますと幸いです)

十六夜燕雀)

話が短い?

先日、とある哲学対話の終了後フリータイムでお互いの印象を語り合っていたのですが、私の印象として「話が短い」という声がありました(賛辞でも批判でもありません)。そこはじっくり話す(言葉が足りないと他の人が問い直さなければならない)場だったので、説明不足にならないよう意識していたつもりだったのですが、いつもの癖というのは中々抜けないものです。

どうして短くなるのか、その原因を(一般論として)他の方と考えてみたのですが、個人的にしっくりくるものには辿り着けませんでした。強いて言えば、長く話すと話者自身が気持ち悪いのではという説が一番自分の感覚に近いように思います。聞く側だと大丈夫なのですが、話す側になると落ち着かなくなるのです。なぜ気持ち悪いのか、これはもうわかりません。

また、他の参加者の方とお話していて気づいたのは、自分の考えや想いが伝わらないことに対して悶々とした経験をお持ちの方が多いのに、私は伝わらないことに対する煩悶が弱いということです。仕事などの(家庭内でも)情報伝達においてはもちろん必要な情報がきちんと伝わったかどうか確認しますが。

後日他の場で、話が短くなる原因について聞いてみました。そこで出されたのが、聞き手に対して何が親切と考えるかが違うのではという説。言葉を尽くして説明することが親切と考えれば長くなり、相手の時間を奪わないことが親切と考えれば短くなる。これも一理あります。
また、第一声が短かったとしても、それに対して質問する側の問いが良ければ長く話せるのでは(問う側の問題)という視点も面白かったです。

一言で聞く側と言っても様々なので、何が親切なのかはわかりませんが、その場の性質に応じて、話の長さ(言葉の選び方)を調整する能力は必要になりそうです。そして、長いまたは短い話し手に対して、どう問いを重ねていくかを考える力も。

もう一つ気になるのは、話す時と書く時の違いです。私はLINE等の文章はむしろ長いのです(自分でオジサン(オバサン)構文かと突っ込みたくなるくらい)。その違いは時間の問題だけなのか(読み手も書き手も好きなときに読み書きできる等)、使う言葉を分けているせいなのか、他に何があるのか知りたくなって、6月に<「話す」ことと「書く」こと>というテーマを設定してみました。皆さんのご意見を楽しみにしています。
なごテツには<さんぷん>ルールがありますので、長めの方はお気を付けください…。

(福)

間違ったことをしていると

 これから述べることは、間違ったことをしていると分かったらたとえそれがどんなに快楽をもたらすことであっても、続行することは出来ないという人にのみ当てはまることなのかもしれない。
 チョコレートは昔、とても高価な医薬品であったという。それが現代日本では安価に手に入るお菓子として食べられている。それは原料のカカオを集めるのに、不当に安価な労働力を用いているからだと聞いたことがある。搾取をしているわけだ。
 そう聞いてからフェアトレードのカカオを使用した商品とわかるチョコレートしか食べない、食べられなくなった、という方がいるかも知れない。そのような倫理が彼(彼女)を貫いているのだ。
 昔から現在に至るまでチョコレートを巡る人の立場というのは、その条件によって変化してきた。それは所与の条件から現実が確定されてきた、変遷してきたということだ。
 人間の自然な行為というのは環境の変移に対応して変わって来た。そのような現実に対し本来はどの様な立場をとるべきなのか、倫理から導けないだろうか。
 その倫理から導出された行動をしていれば、いちいち状況の変動に合わせる必要も無いのではないか。永遠の真理に基づけば。
 倫理も周りの条件により変わらなければならないとしたら、〈自然な行動〉と何が違うのだろうか。だからここでは、所与の条件に依らない特別の言動=〈真理としての倫理〉を考えたい。
 人は動物に痛みや苦痛を与えて食料にしてきた。それは正しいことなのか。倫理に適うのか。人間が生きてゆくのに動物に苦痛を与えずに栄養を摂取するわけにはいかないのか。それをクリアした行いが〈真理としての倫理〉に適い、良心の呵責を感じずに生きてゆくことが出来るのだ。
 ここで「実際飢えているときにはそんな〈真理としての倫理〉など、何の意味も持たないでは無いのか」と言ってはいけない。飢えているときにも満ち足りているときも、その行動の指針=〈真理としての倫理〉に従ってさえいれば、少なくとも「人は他の者のいのちを奪って生きていかなければならない」という苦悩から解放されるからだ。
 しかし〈真理としての倫理〉に徹頭徹尾合わせて生きようとするのは危険である。生命の危機に直面するに際し〈転んで〉しまうだろう、常人は。戦後ヤミ米は法に反するからといって配給米のみを食べ栄養失調で亡くなった裁判官に憧れはあっても、真似は出来ない。
 ではやはり動物に痛み苦痛を与えて食料にするということの意味は不問に付すのが賢いのだろうか。〈真理としての倫理〉など夢物語に過ぎないのだろうか。〈真理としての倫理〉に憧れながらも、それに反して生きてゆかなければならない〈人の業〉が何かを伝える。決して意味の無いことだとは思えないのだが。

(i3)

編集部よりお知らせ:5月13日「言葉遣い」特設ページ(コメント募集)

5月13日の哲学カフェのテーマは「言葉遣い」でした。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

カフェで話題に上ったトピック

  • 言葉遣いで気をつけていること
  • 言葉と言葉遣いの違い
  • 言葉遣いに含まれる要素(語彙、文法、トーン、文字の大きさなど)
  • 言葉遣いを変えることで得られるメリット、デメリット
  • 「使う」と「遣う」の違い
  • 態度を変える、言葉遣いを変える
  • 気をつけるべき言葉遣い(つまらないものですが/なるほど/否定語)
  • 自然に出る言葉遣い
  • 目的がある場合の言葉遣いと、ない場合の言葉遣い
  • 言葉遣いによって相手との距離感が伸び縮みする
  • どんな言葉を使うかによって人格が変わる?

進行役のコメント

言葉ではなく、言葉遣いが伝えるものについて、これからも考えていきたいと思いました。

当日参加された方もされなかった方も、コメントお待ちしています。

愛着形成から考える愛着とは

i3さんの記事「愛着とは」を拝読し、私もコメントしたのですが、どうにもモヤモヤしてしまいました。このモヤモヤを言語化するため、またコメントのお返事として長くなってしまいそうだったので、今回記事にすることにしました。みなさんからもご意見いただけたら嬉しいです。

からすさんからの疑問もあり、改めて

  • 人間の「愛着形成」や、鳥の卵が孵化した際の「刷り込み」って何だろう?
  • 人間の赤ちゃんに「愛着形成」があるように、子犬や子猫の「愛着形成」はあるのだろうか?

と思い、いろいろと調べてみました。

私自身の解釈としては、“学術的”には「発達心理学の愛着」と「感情の愛着」は、完全一致ではなく、重なる部分があるのではないかと思っています。

愛着形成と刷り込みの共通点と違い:現象は似ているが、学術用語として定義が違う

教科書的には、発達心理学の「愛着形成」での「愛着」は、基本的信頼感です*1。これは、後に感情の分化(赤ちゃんにあるのは快-不快の感情のみで、成長とともに経験によって分化し、様々な感情が生まれるとする考え方)で生まれる愛情(という感情)の基礎になると私は思っています。

「愛着形成(無理矢理かどうかは私にはわかりませんが、確かに愛着はattachmentの日本語訳です!)」が発達心理学の言葉である一方で、「刷り込み(imprinting)*2」は鳥類に見られる現象で、動物行動学の言葉のようです。

現象としては人の愛着形成も鳥類の刷り込みも似ているけど、刷り込みには”学習臨界期“という、その時期を逃してしまうと、その後決して学習できないという限界があることが、決定的な違いなのでしょう。鳥類では、例え鳥の親でない相手(例えば人間であっても)を育ての親として認識してしまうと、それを覆して本来の鳥の親を育ての親としてもう再認識することはできない、ということだと思います。

一方で、人間の愛着形成は、大人になってもやり直しが効くと考えられているようだと、私は記事を読んで理解しました(専門外なので、私には学術的にはその理解が正しいかどうか検証はできません)。それは、幼い頃に育ての親(養育者)との愛着関係をうまく築けず大人になった人が、後に養育者とは別の人(例えば臨床心理師)と関係性を築きながら、良好な人間関係を築くための“基本的信頼感”(つまり愛着)を修正することが可能だとする考え方から、私はそう思うのです。

子犬や子猫の愛着形成と愛着障害愛着障害が人間とペットの社会関係に影響を及ぼす、動物愛護の視点

では、人間と同じような「愛着形成」が子犬や子猫にもあるのでしょうか?

実際には、子犬や子猫にも「愛着障害」という概念があるようで、それはやはり子犬や子猫の時に、母犬や母猫から分離されてしまうことで愛着形成ができないから、と考えられているようです。

犬や猫の「愛着障害」は、日本のペット産業の問題から出てきていています。かなり幼い子犬や子猫の頃からペットとして飼育したい人間側のエゴによって、子犬や子猫が親やきょうだいから引き離された場合、健全に成長できないのではないか、そのために社会的な規制が必要なのではないかという動物愛護の視点から議論されて出てきた概念といえます。

子犬や子猫の「愛着形成」がうまくいかないような幼齢での分離は、あまりにも幼い子犬や子猫を人間がペットとして迎えることで、人間とペットの良好な社会関係を築くのを妨げ、ペットとして問題行動も起こすだろう、とする警鐘を鳴らしつつ、「愛着形成」という概念はその科学的根拠にもなっています(環境省での動物愛護管理のあり方検討小委員会*3で検討された「資料3:犬猫幼齢動物の販売日齢について*4」が残っています。更に、その科学的根拠については改訂がありました*5)。

いずれにしても、私の疑問は「愛着形成」が本当に後の人間関係構築だけでなく、物や人に対する「愛着」にも広く繋がっていくのか?ということです。

時間軸を含めて深く考察されているi3さんの記事には、そのことにつながる側面がある一方で、この疑問を考える上で私の思考力ではどうにもならない限界がありました。そしてこの学術的な「愛着」は、言葉が指し示す愛着の一側面にすぎず、実際にはそう単純ではないはずだという考えも私にはあります。だからこそ、モヤモヤと違和感を覚えつつも、i3さんやからすさんの考える愛着にも納得してしまう部分もあったのだと思います。

みなさんは、どう思われたでしょうか?

(てんとうむし)