なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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「怒り」と退職届

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「だからそれ違うだろー(# ゚Д゚)!!」

 

現在の会社で働いて10年は経つが、声を荒げたのはこの時が初めてだった。相手は毎日顔を会わせている同僚で、何かにつけ私に嫌味な態度をとる人間である。そしていつも私に感情的なものの言い方を隠さず、こちらは一方的に忍耐を重ねてきた。

 

一般的に〈感情的になるのはよくない〉と言われる。感情的なものの言い方はある意味〈核兵器〉みたいなもので、受けたほうが我慢もしくは相手にしないという態度をとることができなければ自然〈核〉の応酬となり、あとにはもう勝者の存在しない地獄絵図が残されるだけだ。

 

それが分かっているから、今後も関わっていかなければならない同僚だからこそ、わたしは10年以上折れてきた。その同僚は「自分はどんな言い方、態度をしても許される。会社になくてはならない有能な逸材である」と自身のことを考えている様子があり、それがまた余計に私を腹立たせた。

 

そのとき私は『会社としてはこの同僚の肩を持つだろうな』と思い、辞表が頭をかすめた。すると自分の声の大きさに反応し、私の核燃料の臨界点を軽々と制御不能な位置まで超えていくものがあった。もう自分が何を喚いていたかははっきりとは覚えていない。

 

〈火事と喧嘩は名古屋の華〉という言葉はないが、当事者でなければ他人が怒っているのは見ていて面白いものだ。それだから「朝まで生テレビ」という番組が昔にあったのだと思う。でも野次馬を楽しませるために「怒り」の感情が発達してきたわけでもあるまい。全く不要な負の感情であれば、進化の過程で人類はわざわざ「怒り」など獲得してきた訳がないだろう。

 

では一体何のためにこの困った感情は育まれたのだろうか。この手の付けがたい感情は人類の歴史が戦いの歴史であったことを物語る。火事場の馬鹿力というものがあるように、怒りの感情を燃えたぎらせた人類は自然や同類に対して途轍もない力を発揮して現在まで生き延び繫栄してきた。心拍数や血圧、呼吸数をMAXにして戦闘モードに突入!というわけだ。

 

しかしこの克服しがたい感情が有効であったのも、人類が現代と比べてお話にならないくらいお粗末な人間関係だけを保っていれば済んだ過去の話。狩猟採集で暮らしていた祖先は、嫌な奴が近くに住んでいたら場所を移るだけ。そうすればそんな奴の顔を見ずに済む。現代のように嫌な奴のことが頭の中で反芻されるということもない。木の実、果物、魚介類、そしてたまの肉類があれば事足りた当時、場所を移せば争いを回避できたということでもある。それでも怒りの感情に囚われた時、忍耐せずに怒りのパワーを爆発させ、動物、或いは他部族と戦ってきたのだろう。

 

そうやって命を懸けた格闘の勝者の子孫が我々になる。皆そうやって生きて来たのだから、ある意味、現存する人類は度し難い怒りの持ち主ばかりだ。「ある意味」というのはもちろん、ただそういう遺伝子を受け継いではいるということなのだが。

 

翻って現在、そうやって怒りのパワーを単純に格闘の燃料にしていればよかった時代から、進化的にはそんなに時間が経っていない。それにも拘らず人類の生活形態は、当時と凄まじく変わってしまったし、現在も指数関数的に変化している。現代、満員電車でぶつかって来た相手にムカついていちいち命かけて戦っていては生活が破綻するのは目に見えている。それよりも知人、同僚、近所の人間など仲良くしなければならい筈の奴らに満員電車で出会う御仁に対してと同じくらいの怒りを覚えても、クールダウンを迫られるのだ。

 

生物学的なヒトの闘争本能、その脳の構造は何十万年とたいして変化していないのに、それを取り巻く環境だけは加速度的に変化してしまった。そして生きてゆくため仲間と関係を保って協力してゆくことを選んだ人類の行きついたところは高度で複雑な人間関係。そこから受けるストレスで悩まされ、確かに平均寿命は延びたが、引き換えに様々な苦しみを味わうこととなる。

 

また顔の見えない人間関係に苦しむようになったのは、デジタル化が本当に人間の幸福に直結しているのか、ただ効率を極大値に近づけただけではないかという矛盾の帰結を生んだ。

 

その変化は人間自身が作ったものであり、一方私たちは自然のままの生物学的ヒトであることには変わりがない。これからも人類は自分の生きてゆく環境を、人類自身が無理なく進化してゆける以上のスピードで変えてゆくだろう。齟齬をきたすどころじゃない速さで。

 

恐らくそのうちその差を埋めるべく、凄まじい人工環境に耐えうるように私たち自身を遺伝子操作し、サイボーグ化することが当たり前になされる時代もやって来るのだろう。だがそのころの子孫は、はたしてほんとに人なのだろうか。どんな感情を持って生きているのだろうか。ただでさえ進化の流れは怒りやすい個人の遺伝子を淘汰してゆくとしても、そんな未来では遺伝子操作で怒りの遺伝子は人工的に無くなる運命なのだろうか……。

 

別の同僚がわたしと同僚の喧嘩の止めに入ってきた。結果的に全面核戦争でこの世界が完全に滅びてしまうということはなかった。だが当然気まずさは残る。それでも停戦調停は私に優位に進んだように思う。そうは言ってもわたしの退職願はまだ手中に残ってはいる。

 

後日振り込まれた冬の賞与がいつもより少ないように感じたのはただの思い過ごしなのだろうか。賞与の査定の日、直前の喧嘩騒ぎだった。

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