なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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「生きる意味」なんてあるの?

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 先日の哲カフェのテーマは大人気『生きる意味とは』でした。人気テーマで過去最多の参加者を集めます。しかしいざ哲カフェが始まると「生きる意味は無い」「そもそも人生に意味があるのかという問いは成り立たない」「人生は単なる暇つぶし」等などクールでネガティブな意見が飛び交いました。
 ひと昔前新聞か何かで京大哲学科の学生の出した「人生の意味」が話題になったのを知ってはいたので、ある程度覚悟はしていたのですが……。学生の出した「人生の意味」は勿論「暇つぶし」です。(裏を取ろうとググってみたのですがそれらしきものがヒットしなかったので何かの記憶違いの可能性もないわけではないのですけれども)
 僕も正直「人生に意味は無い」と考えてはいたのですが、何故かそれは言ってはならないフレーズのような気がしていました。ちょうど昔の日本で「お金の話は人前でするものじゃない」というのが暗黙の了解であったように。
 なぜ「人生に意味などない」と言うのが憚れるのか——常識的には例えば献身的に、時には命を懸けて僕らを救ってくれる人の存在。医師が手術で、消防士が火の中からあなたを救ってくれたときに「本当にありがとう。でも人生に意味は無い、人生は暇つぶしだよね。」とはとても言えない。
 「人生に意味がない」という言説は容易に「命は絶対的に大切なもの、ではない」という言明に変わりうる。逆に言えば「命は無条件に意味がある」のであればそこから「人生には意味がある」も演繹できるのではなかろうか。
 NASAが予算獲得のため「地球以外にも生命体が存在する予兆が見えた」と宣伝するが僕は個人的にその見解には与さない。あの宇宙科学者サー・フレッド・ホイルは宇宙で生命が自然発生する確率を10の40000乗分の1と弾き出した。これを「廃材置き場の上を竜巻が通過した後で、ボーイング747ジェット機が出来上がっているのと同じような確率である」とホイル博士はイメージしやすく言い換えている。
 他にもある日本人科学者が見積もった宇宙で生命が自然発生する確率は「宇宙でトランジスタラジオが自然に組み立てられる確率と同じ」というのがある。
 確かに0ではないにしても限りなく0に近い確率だ。恐らくこの宇宙で生命体がいるのはこの地球だけではなかろうか。
 さらにその生命体が人間のような知性を備えた生き物にまで進化する確率も限りなく低いと聞く。
 科学者の中には宇宙に地球以外の生命体がいる確率を100%とみる人もいるから勿論断定はできないが、宇宙で知的生命体は人間だけだという戦慄すべき説の方が論理的帰結としては無理が少ない気がする。
 そして更にあなたという存在は後にも先にもあなただけ。唯一のものだから価値がある、とは首肯できかねるという方もおられよう。これはもう理屈ではない。「廃材置き場の~」がファンタスティックに感じられる感性を持っているかどうかだ。
 これだけ文字通りの奇跡の結果があなたの人生になる。それが、全宇宙を懸けた驚異の集大成であるあなたのいのちが、何の意味もないのだろうか。そのいのちの毎日の繰り返し=人生が奇跡でなくて何なのだろう。

 

 僕らはある目的のために努力、苦痛を重ねてきた記憶がある。志望校に合格するという目的のために苦痛な受験勉強を耐えてきた。病気の治療のために(たとえば虫歯を治すために)部分麻酔がかかっているとはいえ疼痛に耐えてきた。
 そこで僕らの思考のパターンとして「苦しみを我慢していれば目的に到達できる」というのを身に着けてきた筈だ。僕らが苦しみを感じるのは何か意図があるからだ。風邪をひいて頭痛がするのも、体を休めさせ再び健康に過ごすことができるようになる為にほかならない。
 ここから「人生が苦痛なのは何か目的があるに違いない」「その目的を達成するための努力の過程として苦痛を感じているに過ぎない」と考えるのは自然なことだ。「人生に意味があるのか」とは「生きることに目的があるのか」という謂いに他ならない。そして生きるのが苦しいのならば(苦しくて当然だと思うが)なにか目的がある筈だという思考に辿り着くのは論を俟たない。
 だが困ってしまう。その目的が何なのか一向に分からないからだ。僕らは何か最も大事なことを忘れて来てしまったらしい。どうすれば思い出せるのだろう。その目的を。安易に神を持ち出すのは自分を胡麻化すことになる。では科学が答えてくれるかと言えば原理的にあり得ない。科学は人間が何か目標を定めた時には奉仕してくれるが、その方向を決めるのは人間自身であって科学ではない。そこで縋る様に哲学に到達する。
 哲学と言っても所詮は理屈=トートロジーだ。だからそれが嫌なら論理外の世界=宗教に答えを求めるに如くは無い。二者択一。僕は啓示によらないほう=こころの〈数学〉を選びとる。でも数学(理屈=トートロジー)には、たとえばユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学があるように、どちらも前提が異なり、どちらもその限りでは正しいという事がある。

 ではユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学ではどちらが正しいのか、つまり世の中はどちらのよって立つところの前提になっているのか。それは物理学が決める。重力場がそれほどでもないところではユークリッド幾何学が、ブラックホール近辺のような重力が強すぎるところでは非ユークリッド幾何学が真実になるというように。だが物理学はさきほど否定した〈科学〉の一分野になる。〈科学〉はいつでも暫定的な世界の把握の仕方だ。〈科学〉では〈真理〉には到達できない。限りなく〈真理〉に近接するだけだ。

 

 ということでまた振り出しに戻ってしまったようだ。人生の意味とは。しかし人生が苦しいとか言ってももっと正確に言うと、人間関係、生活苦、持病、思い通りにならないことetc.が悩ましいということだろう。生きていること自体が苦しいわけではない。であれば、その原因が解消すれば人生の苦しみとやらは雲散霧消する。「それがそう簡単には解決しないから苦しんでいるんだよ」。あなたはそう言うだろう。だったらそれを解決するのに人生を賭ければいい。解決できればいう事ないし、そうでなければその努力が「あなたの人生の目的になる」。それがあなたの人生の意味だ。苦しみを一つ一つ消していく。

 

 「いや私の人生は『なんとなく辛い』とか『何か物悲しい』だけで『ぼんやりとした不安に悩まされている』だけだ。人生自体に苦しめられているんだ」という方がいるかもしれない。それでもよく考えてみて欲しい。その理由を言語化するのを阻むものは何か。まずはその作業が人生の目的・意味だろう。
 だが敢えて苦しみを直視しない、というやり方で安逸をむさぼっていることもあるだろう。そのとき敢えて言語化してゆくのがいいのか、〈ぼんやりとした不安、悲しみ〉に付き合っていたほうがまだ良いのか。安直には言えない。ジグムント・フロイドなら言語化を勧め、精神分析したがるかもしれないけれども。
 「解決したと思ったら別の苦しみが次から次へと押し寄せる。もう人生なんて嫌だ」と思う事も当然考えられる。「それが人生というものならもうこのゲームから降りたい」と。
 それに対しては〈初心忘るべからず〉。
 むかしもう駄目だと思ったこともなんとか乗り切ってきたのだ。そのむかしを思い出せと能の達人が言っている。今までよくやって来たではないか、と。
 それでも「もう疲れた」の前ではどんな言葉もないのかもしれない。
 そんなときには只「熱いお風呂に入って腹いっぱい食べてよく寝る」くらいのことしか僕には口にできないけれど。
 そうしてそのむかしが、もう二度と生きることのないその昔が、生きるのを不可能としてしまうことがある。どうすればいいのか。その苦しみに。
 人生に意味があり過ぎる。意味の過剰。
 逆に、閉ざされた未来を運命づけられた人の苦しみに対して、どんな意味を見出せば良いのか、安直に口をはさむのもためらわれる。
 ただ難病に苦しめられているわけでもない僕らも、時間の長短はあるけれどみんな未来は閉ざされている、と言えないことはない。

 

 最後に、もしかしたらこう嘯く方もおられるだろうか、「いや俺には何の悩みも無いし苦しくもない。だから人生の意味もない」。そういう方は人間ではない。神だ。だから人生ではなく神生を生きている。人生の意味ではなくて神生の意味でも考えてください。
 人生の意味とは苦しんでいる人間のみが持つことができる。苦しみが消えたところで人生の意味も消失する。しかし、そんなことは可能なのか。どうあがいても苦しみも人生の意味も付いて回ってくる。

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