なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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やっぱり「教養」って………

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先日の哲カフェ、先回お流れとなった「教養とは」がテーマでした。前半は教養をポジティブなものとして捉えた意見が多かったようです。というか、教養という言葉の持つポジティブな面からの各自の思いが語られました。

 

そうすると当然、この言葉の持つネガティブな側面からの異議申し立てがあるわけです。いわく教養はダサい、上から目線だ、必要ないものだ、ムカつく、意味のないものetc.

 

確かに現代では教養という言葉は「インテリ」という言葉ほどの死語ではないものの旗向きが悪いのは認めざるを得ない。こうなると論点は「なぜ教養の地位が低下してしまったのか」になってしまう、個人的には。

 

過去には教養は確固たる地位を占めていた。翻ってネット全盛時代の昨今、情報は簡単に誰にもでも手に入り、教養の価値は下がってゆく。また今の社会では教養という言葉はコマーシャリズムに利用されるのがオチだという流れがあるのも否めない。しかしだ。商業社会が「まだこの言葉には何か人々を魅了する力がある」と認めればこそ、瀕死の教養を担いでいるのも事実。

 

僕も、大手を振って言えないまでも、教養という言葉には何かある、と感じている。自分に自信のある人は別にして、教養のある人間になりたいと思っているひとの謙虚さは、唾棄すべきものではない。現在の自分に慢心することなく、漠然とだが目標を持って、教養のある人物になりたいと切磋琢磨している者を笑う資格があると思っている人間は誰なのだろうか。

 

本当のことでなければひとは動かない。そして今日でも、ネットの中にはないその本当のことが、世の中のなかにはあると痛切する。ひとを動かしたいと思うならば、教養を身に付けていなければ難しいのではないのか。

 

哲カフェではつい迎合して教養のネガティブな面にスポットを当ててしまったが、ほんものの教養のちからを語ることができなかったのは本意ではなかった。

 

教養とは、①問題を正しくとらえ、②コミュニケーション力を活かして、③知識をツールとして『問題を解決する能力』である、とは今しがたネットで見つけた(* ´艸`)のだが、ひとはいかに生きるべきなのかという問題が各自にあるように、教養がそれを解決する能力なのだという考えが脳裡をよぎった。

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