先日の哲学カフェで「苦しみの意味」に関する皆様のお話を聞きながら、「偽装した祝福」という言葉を思い出しました。
元の英語「blessing in disuguise」は「変装した祝福」という意味で、一見悪く見えるものが結局は良いものだったという状況を示します。
日本の諺では「災い転じて福となる」が近いかもしれません。ただ、「偽装した祝福」は、結果的に良いものだったという時間の経過があるように見えて、今この出来事が「祝福」であると捉えているところに特徴があるとも思います。現在の苦労が後々役に立つとか、そういう発想も無いまま、自分の中で「偽装した祝福」と受け止めていることが意外と多いのではと思いました。他の人にこの受け止め方をお勧めする気はありませんが。
村上春樹の『騎士団長殺し』で、登場人物の一人が以下のように語っています。
偽装した祝福、かたちを変えた祝福。一見不幸そうに見えて実は喜ばしいもの。という言い回しだよ。Blessing in disuguise。で、もちろん世の中にはその逆のものもちゃんとあるはずだ。理論的には。
祝福の対義語は呪詛です。理論的には「かたちを変えた呪詛」もあるはずだけど、という意味でしょうか。人対人レベルでは普通にあるのでしょうが、もっと大きなレベルではそれは無い気がするよね、何となく(「理論的には」の対義語として)と言いたくなります。
わかりやすい祝福、偽装した祝福だけでなく、良くも悪くも見えない、誰にも気付かれないささやかな祝福が世界には満ちているのかもしれません。