なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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議論の価値は

かの犬養毅は5.15事件にて言い残したとされます。「話せば分かる」と。
しかし、本当に話せば分かったのでしょうか?

 

昨今のウクライナ情勢を受け、バルト三国の1つであるリトアニアの首相が「(外交や平和交渉ができるのは)双方が平和を望む場合に限られる」と訴えたように、泣く子と地頭には勝てないように、人の会話は「キャッチボール」とも形容されるように、そもそも相互の協力なくして会話や議論は成立しません。

 

同じ言語と文化を共有している平和な日本国内ですら、今日も右と左で互いに分かりあえず、話が噛み合わず、その理由として互いに互いを「相手が無知だ愚かだ」と揶揄しあっている始末ですから、それが言語も文化も異なる他国との外交であったり、戦時の如き焦燥感が伴う場面であれば尚のこと、「話せば分かる」のかは危ういでしょう。

 

では何故、かくも会話や議論は難しいのでしょうか?
その理由は主に3つ挙げられるのではないかと思います。

 

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(1) 誰もが自分の盲点だけは見えない架空の世界で生きているから

 

一口に「知っている」と言っても、色んな幅や深さがありますが、ただ単に話として見聞きしたことがあるだけの「知っている」は深度が浅いように、実際に自分の身体で見て聞いてやってみて、自分もそれをできるようにならなければ、真にそれを「知っている」とは形容し難いでしょう。

 

それはつまり、「実際に経験することができない、他者の観測する世界は、その本人自身しか真に『知る』ことはできない」ことを、「人は根源的に、自身の脳と心が観測して創り上げる、狭い虚構の世界の中でしか生きられない」ことを意味します。

 

さらに困ったことに、理屈と膏薬はどこへでも付き、盗人にも三分の理があるように、論理的正当性を付与できない主張は基本的に存在しません。すると結果的に、自身の主張は、自身の盲点が見えない無知性故に、しっかりとした論理的正当性に立脚したものと思える反面、相手の主張ばかりが、相手の世界への理解が浅い無知性故に、盲点や矛盾を抱えたものと思えてしまいがちになってしまいます。

 

(2) 人は経験や情動に起因する結論ありきで動いており、言葉や論理はそれを形容する枝葉末節だから

 

人間の行動は90%以上が無意識制御であると言われていますが、比率こそ異なれど、人間の思考もまた、脳の状態や無意識に依る所は大きいでしょう。そしてその無意識は過去の経験や情動の蓄積によって構築されるものであり、人は誰かに何かを伝えようとする際、多くの場合、自身のそうした過去の経験や情動,教訓などを結論として、出発点としてまず想起し、その後付けとして、言葉や論理で装飾している側面が強いのではないかと思います。

 

だからこそ直感や第六感など、言語や論理を超越した勘が機能することもあれば、自身の観測する狭い世界の範囲以上に過去の教訓や成功体験を拡張して、羹に懲りて膾を吹いたり、坊主憎けりゃ袈裟まで憎かったり、世界を持論に都合よく解釈したがるバイアスが発生したりもするのでしょう。

 

しかして、そうした経験や情動は本人にしか観測できず、相手には追体験させられません。故に人は意思疎通に際し、言葉では形容しきれない結論を、経験や情動を、仕方がなく言の葉で形容し、後付けの論理で体系化し、体裁を整える、そんな本質の幹とは遠い、枝葉末節同士でのやり取りが「会話」や「議論」なのだと思います。

 

(3) 議論の結果は正しさを形容しないから

 

そんな人間同士が、言葉では形容できない経験や情動に起因するものを、後付の言葉や論理を交わして分かることは、単なる「互いの口達者さと論理的思考能力の差異」でしょう。

 

悪を糾弾する者が正義であるとは限らないように、詭弁術などという言葉もあるように、相手を言いくるめ、納得させ、他者の誤りを指摘できることは、その者の主張に誤りがないことを保証しません。例え相手の論理に矛盾を見出だせたとしても、それは「自身の無知故に、自身の理解力の不足故に矛盾に見えてしまっているだけ」という可能性を排除できませんし、もし仮にそれが実際矛盾であったとしても、それは「その論理では主張の証拠能力として足りない」という証にこそなれども、「相手がその論理で形容しようとしていた結論の正当性」までは、可能性として否定できません。

 

真に先駆的な知見は周囲の理解を超越していることも多く、メンデルの法則や大陸移動説から病原菌説まで、生前は嘲笑されるも、提唱者の死後になってその正当性が立証された話は科学界においてもよくある話です。

 

ましてそれが心象風景に基づいた、抽象度の高い立証困難な事象であれば尚のこと、意見の異なるどちらの方が、何が正しいのかを議論で見定めるのは困難でしょう。

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では、そんな不完全な代物である「会話」や「議論」はするだけ無駄なのでしょうか?
私個人としては、それもまた違うと思います。

 

確かに「会話」は不完全な代物であり「話せば分かる」と盲信するのは危険でしょう。しかし「10割は分からない」という事実は「1,2割なら分かる」という価値を否定しません。自身の盲点は、自身の世界の外にしか存在しない以上、少しでも外界を垣間見えることができる「会話」には価値があると思います。例えそれが本質から外れた枝葉末節なやり取りでしかなくとも、相手と議論し、相手の論理的矛盾に感じる部分を問い掛けることにも価値はあると思います。

 

それは、自身の無知は、自身の理解や論理が及ばない所にあるからであり、そこへ至る「過程」として、相手の言葉や論理のその奥にある、本質に迫るための「手段」としての議論には、意義があると思うからです。

 

しかしそれはあくまでも、各々が自身の観測する世界を盲信せず、無知を探求する限りにおいて、相手の言葉や論理の奥にある、相手の観測する世界を想起する限りにおいて、です。裏を返せば、互いに持論を信じる信仰者同士の議論は、宗教戦争にしかなりません。それは哲学においてもまた然りで、持論を疑うことを止め、信じてしまえばそれはもはや哲学ではなく宗教だと思います。自身の無知の可能性を顧みず、疑念という名の不安を捨て、信仰という名の安寧に胡座をかいた時に哲学者は死ぬと考えています。

 

もっと言えば、会話や議論の価値は、それをしたその時ではなく、それを終えたその後にこそ真価が問われるものだと思っています。それは、相手から言葉や論理を引き出すだけ引き出したその後に「相手には何が見えていて、何を形容したかったのだろう」「本当に自分の主張は合っていたのだろうか?」と、反芻し吟味する時間こそが大事だと思うからです。もし議論における「勝者」という概念を定義するのであれば、それは「議論を通して、その後に、それまで盲点だった新たな世界を見出だせた者」ではないでしょうか。     

 

十六夜燕雀)