早々と梅雨明けして暑い夏の午後。
ぼーっとしていると、子どもの頃の楽しい夏休みを思い出します。
ヤッホー!というテンション高い楽しさではなく、夏空を眺めながら麦茶が喉をすべり落ちていく感覚をあじわうような、ささやかな、そこそこの楽しさ。
子どもの頃はこじんまりした一戸建てに住んでいて、階段の上から三段目が私の定位置でした。家の中で一番風が通って涼しい場所。そこで本を読んだり妄想したりして過ごすのが私の「楽しい」でした。
今もその感じはあまり変わらなくて、生きるヨロコビって、一瞬の「ああ、きもちいいなぁ」とからだが感じることだと思います。そこそこの気持ちよさを。
「すごーく楽しい」も悪くないんだけど、いらないオマケが付いてくるんですよねぇ…。
時々ならいいんだけど。
「そこそこ」にはそれがない。
そもそも、まぁまぁ足りてると認めてもいいかな、というレベルが「そこそこ」だから。
だから「そこそこ」が好き。
そこそこ気持ちいい、そこそこうれしい、そこそこいい感じ。
こじんまりとしたヨロコビを、全身であじわう。
じわ~~~…
哲学カフェに参加していると「私」とか、「世界」は存在しない、そういう考え方も耳にします。
ある意味では、そうかもしれんなー、と思ったりもします。
でも、この「からだ」は、ここにいるよねぇ、と麦茶を飲んでみる。
麦茶が喉をすべる、風が肌にふれて汗が引く。
ああ、生きているーーーー。実感。
ふと見渡せば、そこそこの、こじんまりとしたヨロコビたちが、いくつも私の周りで毬のように転がっています。コロコロと。
「すごい」を求めると、「そこそこ」を踏みつぶしたりするんですよね。
でも、幸せは、ほらそこに、「そこそこ」にある。
なんてー、夏の午後の戯言のような、そこそこのてつがく?
あるいは「そこそこ」とも言えないか(;’∀’)
(ikue)