鉄血宰相と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルクは言いました、
『賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ』と。
しかし、「歴史に学ぶ」とは何でしょうか?
『温故知新』という言葉もあります。
しかし、「故(ふる)きを温(たず)ねる」とは何でしょうか?
かのドイツでは大戦の反省からナチスをタブー視しましたが、その結果、一周回ってナチスが悪のカリスマ化してしまい、一部の層からは逆に崇拝されるようになってしまったと聞きます。
日本でも「天皇陛下万歳」を批判している人が、一方では「◯◯万歳!」と現代式の別事象や概念を盲目的に礼賛するなど、表面を改めただけで根本的には何も変わっていなさそうに見受けられるケースもあります。
これらは果たして「歴史に学べている」と言えるのでしょうか?
そもそも、歴史には学ぶ価値があるのでしょうか?
今回はそうした事柄について考えてみたいと思います。
(1) 歴史の有用性
近年、世界ではAI、特に囲碁で人間を超越したディープラーニング系のAIが話題になっていますが、実は、「歴史と人間の関係」は「AIと人間の関係」に似ているのではないかと思います。
何故なら「規模と年月という膨大な計算量の暴力で、自然淘汰という名の最適化計算を行った演算結果が歴史」だと思うからです。
つまり、
「短期的な論理的思考能力は人間の強みであるものの、長期的な直感に関してはAIの方が強い」とされるように、
「私達個人は自らの狭い世界を観測することには強いかもしれないが、それは歴史という最適化計算の結果論が含有する広さと深さには遠く及ばない」という観点です。
それは、『井の中の蛙大海を知らず』とか『遼東の豕』と形容しても良いかもしれません。
いずれにせよ、私達は安易に歴史を否定できるほど世界を知らず、歴史という規模からすれば、盲目的で狭い世界を生きる、無知で幼い子供のようなものでしょう。
だからこそ「歴史に学ぶ」ことが大切なのだと思います。
(2) 理解の困難性
しかし、歴史にはディープラーニング系のAIと同様の欠点もあります。
それは「何故その結論になるのか」という「理由」は教えてくれないこと、そして時に、その理由の推測が人間には大変困難であることです。
囲碁のAI『AlphaGo』が初めて人間を超越した対局にて、人間には悪手にしか見えない新手を連発した先で何故かAIが勝ってしまう様を見た解説者が「何故人間が負けたのか説明できません。AIの打った手が理解できないのです。」と謝罪を口にしたのはその典型でしょう。
それに加え、「囲碁などにおける機械学習は毎回同環境で行われる」のに対し、「歴史という名の最適化計算はその計算の最中も常に環境が変動し続ける」という難点もあります。
つまり、それがAIの出した解であれば「何故か理由は分からんけど、AIが導き出した結論なら多分正しいんだろう」がある程度なら成立しても、「それが歴史的に正しかったのなら、多分今後も正しいんだろう」は通用しないということです。
「歴史は勝者が都合良く作る」「ただの偶然で」という側面も踏まえれば尚更、歴史は学ぶに値すれど、盲信に値するものではありません。
(3) 解像度の低さ
また、歴史から学ぶ上での最大の難点はその解像度の低さでしょう。
私達は経験無くして真に何かを理解することはできず、故に、目の前で生きている他者の観測する世界ですら真に知ることはできないのに、ましてそれが「歴史」ともなれば、解像度の低さは言うに及びません。
故に、その解像度を僅かでも引き上げてやろうと意識する姿勢が、歴史から学ぶ上では重要になるでしょう。
例えば、戦争などの過ちを指して「昔の人は無知だった、悪かった、流された、欲深かった」などと他人事のように、ある種見下して捉える“だけ”で片付けてしまうのは割とありがちなケースですが、それでは真に歴史から学び、反省しているとは言えないと思います。
勿論、「相手に共感を示すこと」と「その相手の正当性」は別事象であり、「加害者にも三分の理があること」や「被害者にも落ち度があること」は、加害行為の正当化材料にはなりませんから、そこの切り分けには注意が必要でしょう。
しかし、「昔の人は何故そうしたのか、何故その時代ではそれが正しかったのか、逆にそうしなければどうなっていたのか」と、その人を自分と同じ一人の人間として捉え、その人の抱えていた選択や葛藤の共感なくして、そうした解像度の引き上げなくして、批判や反省は真に成立しないと思います。
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総じて、人間個人は歴史の壮大さと比べれば圧倒的に無知です。
それ故、宗教やジェンダーなどの歴史的価値観を現代の価値観と常識で安易に「古い」の一言で片付けるのは思考停止だと思います。
しかし、だからといって歴史の結果を安易に鵜呑みにするのもまた思考停止でしょう。
今この刹那も世界は変わり、世界が変われば君子は豹変するからです。
大切なのは無視でも鵜呑みでもない、その塩梅であり、
そして、当時の世界や背景に想いを馳せて共感的に捉え、少しでも解像度の引き上げを試みる、その姿勢が「歴史に学ぶ」上で大事なのではないかと思います。
尚、歴史の話をする上でもう1つ大事だと思うのが
「良くも悪くも『論理や倫理的に正しいものが残るのではなく、結果的に子々孫々へと残ったものが正しいのが歴史』であり、現代もまた、新しいものが現れては消える『歴史の過程』である」
という観点です。
いくら論理が、倫理が高潔であっても、現実に則さぬ理想は後世に残りません。
生物学的な合理性を超えた高潔な言動こそが人間讃歌であっても、それでも人間が根源的に生物の末席を汚している事実は変わらないからです。
紛争などで収奪され途絶えた文化は残らず、少子化が進むなどして持続不能に陥れば社会や文化は途絶え、異文化に上書きされて消えるのが歴史です。
その観点で言えば、このままの調子で進んでいけば将来に残るのは、
軒並み少子化が伴っている先進国の、人権や平等を掲げる文化圏ではなく、
人口爆発が起きている後進国の、依然として宗教観やジェンダーの方が優位な文化圏です。
もしかすると100年後、200年後の人々は、私達が、人間主義という理想を掲げた社会主義の成れの果てを語るが如く、
現代で錦の御旗として掲げられている人権やジェンダーフリーを、過去に掲げられた理想の残骸として語っている…かもしれません。
現代の価値観を大切に思うなればこそ、そうした危機感もまた大切でしょう。
(十六夜燕雀)