先日の哲カフェは、タイトルをその場で決める日だった。ファシリテーターが、その後何度も「なごテツにしては、ヘヴィーなタイトルですが……」を連発することになるとは、本人も思わなかったかもしれない。
決まったタイトルは『死とは何か?』。当然「まずは皆さん自身の経験から、お話を進めていきましょう。」とはならず、タイトルの発案者にお話を伺う事となった。
「我々は、なぜ死を必要以上に忌避し、生に理不尽と思えるほどの絶対的価値を見出しているのか?」という問いが、そこにはあった。
まず押さえておきたいのは、基本的に人間は本能で死を恐怖する生き物であるという事。そこから自然と生を貴び、死を避けようとする文化は生じ得る。
しかし、そのことを勘案したとしても現在、日本の文化について言うなら、生を至上絶対的価値とし、死をあたかも存在してはいけないものだというように、我々からに遠ざけているのは何故だろうか。
ひとつには、日本人は先の大戦の生々しい記憶がある。人の命を重んじるからこそ回天などの特攻兵器があったのだ、という言葉遊びはできる。だが普通に考えて魚雷に人間が入り込んで、命中しようがしまいが生還できないように入り口を塞いで出撃させることのどこが、人命尊重なのか。
桜花や回天などの特攻兵器を生む思想は当然のようにガダルカナル島、アッツ島、ギルバート諸島、マーシャル諸島で玉砕を命じるだろう。旧日本軍軍人・軍属の大戦での総死者数は230万人。食糧が補給されないため、そのうち140万人が飢え死にか、栄養失調が原因の病死だったという。
人命軽視があまりにも甚だしかった。「人命軽視を言うのであれば東京大空襲や広島、長崎での原爆投下で多くの日本人の命を奪ったアメリカの方が人命軽視だ」という言葉遊びにも付き合うつもりはない。
旧日本軍の無謀な作戦で余りにも多くの同胞の命が、軽んじられ、その生が踏みにじられてしまった。その記憶は壮絶であった。だから、戦後その反省として「ひとの命は何よりも貴い」「一人の命は地球よりも重い」のような言説が日本人の潜在意識にまでも入り込んだ。
戦後日本における生と死の関係の原点が、この敗戦にあると考えては、いけないのだろうか。ここからどうして世界の他の国では、(玉砕が無かったのだから)死を生よりも貴ぶ文化を構築する筈という結果を演繹しなければならないのか、私には分からない。カフェで、そのような指摘があったので念のため。(世界でそのような、死を生よりも貴ぶ文化を構築している国は無いのだから、この論考は虚偽だというご意見に対して)
しかし、このカフェで、死の意味は本人にとっての意味と、遺されたものにとっての意味とでは、随分と隔たりがあるものだという事を知らされた。
ただ、死はそれ自体とすれば、誰にとっても悲しいものだという事を別にすれば。
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