「太陽」といえば思い出すことがある。小学3年くらいだったか、或いはまったくの夢の中の出来事の記憶か、今は定かではない。理科の時間。天体についての学習。まずは教室を抜け出し、天体観測をしようと先生は考えた。最も身近な天体のひとつ太陽を見て何か疑問のある人は挙手して発言するよう先生は促した。早速ある生徒は口火を切った。「先生、なんで太陽を見るとクシャミが出るんですか?」
とても面白い疑問だと思う。太陽を裸眼で見ると危ないから反射的に目を閉じるよう脳が命じているのだろうか?確かにクシャミをする時は目を閉じてしまうから、結果的に眼球を保護したことになる。そんな仕組みが体には備わっているのかも知れない。
ところが天体としての太陽、表面温度が6000℃あるとかそういう事実に関することと全く違う生徒の疑問は先生のお気に召さなかったらしい。「〇〇くん、それは余り関係のない疑問だね。他の人で何かあるかな?」と先生は冷たく言い放った。
いやいや大人の科学者でさえ太陽を見上げて意義深い疑問など、そうそう浮かんでくるものでは無かろうに。先生は身近に科学する心を却って摘んでしまったのではなかろうか。青空の下で授業をすることで。
今ググってみると、太陽を見るとクシャミが出るのは「ひかりクシャミ反応」(そのまんまですね)と名づけられた生理反応で人類の1/3くらいの人は経験するが、2/3の人は反応しない現象らしい。とすると、アフリカ人の方が北欧ヨーロッパ人よりもこの反応を起こす遺伝子をたくさん受け継いでいるのだろうか?とかいくらでも面白そうな〈科学的疑問〉は浮かんでこようものを全く件の先生は罪な人だ。だいたい書物を離れ実体験に基づかねば科学する心は育めないという信念は怪しい。
文学は書物を離れ実体験からしか学べない、などとたわごとを抜かす先生はいないのに、理科教育に関しては書物よりも実験ないし実体験しか重んじないという先生の多いこと。
その挙句があんな授業では科学嫌いのこどもを量産するだけではないか。日教組が反権威を信条にするのは勝手だが、子どもにもそれを押し付けるのはよろしくない。いや、小学校教師という小権威が大権威の代わりになっているだけで、権威の矮小化が碌なことには導かない。だいたいニュートンが打倒すべき権威で漱石はそうじゃないなどと妄信している姿が権威に屈している。僕の思い過ごしであれば良いが。
Short story1
太陽も死も直視できない (ラ・ロシュフコー)
〔意中の女の子に向かって〕男『あなたは太陽のようなお方だ!』
〔微笑みながら〕 女『どういう意味?』
〔何を思ったのか〕 男『太陽も死も直視できない』
〔激怒しながら〕 女『どういう意味!ヽ(`Д´)ノ』
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