なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

● なごテツからのお知らせ ● ←ここをクリック!


哲学者のための統計学入門1

「数学なんて勉強して何の役に立つんだ」という話をしばしば耳にします。

まぁ実際、数学なんて使わずとも人生を幸福に終えられる方は多いでしょう。しかし、情報が溢れ返り、不可思議な怪異が姿を消し、科学故に「分かる」ことが普通と錯覚されやすい現代社会において、数学の派生である『統計学』に関しては、必須技能と形容しても良いのではないかな…とも思います。

それは何もビッグデータだとかデータサイエンスだとか、そんな高等な話をしたいのではなく、世界を見て安易に「分かったつもり」に陥らないための、『無知の知』を戒めるための、「ある種の哲学としての統計学」という話です。

今回はその中でも『相関関係』という観点に焦点を当てたいと思います。

-----------------------

現代社会を観測するための眼として、私が個人的に、一番重要ではないかと思う統計学の概念が『相関関係』です。

それは、語弊を恐れず平易に言えば、「因果関係がある…ように見えることが相関関係」であり、「『相関関係があること』と『因果関係を特定すること』の間には大きな壁がある」という話です。

例えば、ここに「女性の平均学歴」と「出生率」が「反比例の関係にある」グラフがあったとしましょう(※あくまでも仮定の話です)。ある人はこのグラフを見て「女性の学歴が上がると、出生率が低下するんだ!」と主張するかもしれませんが、これに関しては「そのような因果関係までは、このグラフだけでは特定できない」というのが正解になります。

何故なら大抵の場合、そうしたグラフは「『女性の平均学歴』と『出生率』以外の要素が全く同じ環境・条件下で観測されている訳ではない」(そこまで正確な計測は基本的に不可能である)ため、前述の因果関係以外にも、以下のような様々な可能性が考えられるからです。

・「女性の平均学歴」と「出生率」に因果関係があるのではなく、両者が共通の第三要因と因果関係があるだけの可能性

 → 例えば(※あくまでも例えばの話です)、第三要因である「その国の裕福さ」という真の原因が「女性の平均学歴」および「出生率」という2つの結果に、それぞれ結びついているだけ、という場合です。この場合、真の原因である「その国の裕福さ」は据え置きに、その結果でしかない「女性の平均学歴」だけを変動させても「出生率」は変動しない可能性があります。

・仮に「女性の平均学歴」と「出生率」に因果関係があったとしても、想定とは因果が逆である可能性

 → 常識という名の偏見コレクション的に考えれば、「女性の平均学歴」と「出生率」の2つの要因に因果関係があるとすれば、「女性の平均学歴」が原因で「出生率」が結果、と考える方が自然かもしれません。しかし、実際には先に「出生率」が下がった(原因)ことにより、親が子ども1人1人に注力するようになって「女性の平均学歴」が上がった(結果)、という逆の因果関係である可能性も排除することはできません。

・他の強烈な第三要因によって、「女性の平均学歴」と「出生率」の因果関係が埋もれてしまっている可能性

 → 例えば、実は「女性の平均学歴」と「出生率」自体には反比例ではなく、むしろ逆の比例の因果関係があり、本当は「女性の平均学歴」が上がれば「出生率」も上がるはずが、実際には「出生率」が何か他の強烈な第三要因によって、それ以上に押し下げられている場合です。この場合、「出生率」の低下度合いは「女性の平均学歴」の上昇によって緩和されており、「実は『女性の平均学歴』が上がっていなければ『出生率』はもっと低下していた」という可能性も有り得ます。

・そもそも「ただの偶然」という可能性

 → 「女性の平均学歴」と「出生率」には何の因果関係も無いのに、偶々、偶然、相関関係が出てしまっている可能性だって排除できません。

-----------------------

そんな訳で、例え話として「因果関係の正確な推定にはタイムマシーンが必要」なんてよく言われるほどに、因果関係の推定は実は極めて困難です。そして、そんな困難な事象に少しでも迫ろうとしているのが『統計学』という学問な訳です。

逆に言えば、一般人がニュースなどを見て「状況証拠から因果関係(原因)は明らかじゃないか!」「これがその原因だったんだ!」なんて主張していたら、それは十中八九が『相関関係』でこそあれ「因果関係とまでは言えない」と言ってしまっても良いでしょう。

こうした因果逆転の可能性のような「無知の知」を、哲学者は常に戒めねばならないと思います。

何故ならこうした観点は統計学的なグラフに限らず、個人が観測した「何かから何かを見出そうとする」際も、「何かを何かの論拠としようとする」際も、同様であるからです。

例えば「人は哲学を探求すると精神を病む」という俗説はその実、因果逆で「精神を病むような人が、哲学に集まりやすい」だけかもしれません。

もしかすると、「社会が不安定になった」ことを原因として、「哲学を探求する人」と「精神を病む人」が同時に増えた結果、両者の相関関係が印象的に見えたが故に生まれた俗説なのかもしれません。

むしろ逆に「哲学を探求したお陰で、精神の病み度合いは軽減されており」「哲学に触れていなければ、その人はいずれもっと病んでいた」という可能性だって排除できません。

更に言えば、そもそも「人は哲学を探求すると精神を病む」という俗説自体がただの思い込みで、実際にちゃんとデータを集めてみたら全然有意な差異は出なかった…なんてオチもよくある話でしょう。

こういう話をすると、もしかしたら「そんなことを言い出したら、何も話ができないじゃないか」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、正確性を意識するなら、真理を探求しようとするならば、実際「その通り」だと思います。

要は、そんな安易に因果関係を見出だせるほど、私達は賢くなく、世界は単純ではないのです。

大抵の場合、私達は世界を観測して持論を構築しているのではなく、持論に都合良く世界を観測しており、『木を見て森を見ず』どころか『都合の良い木を見付けて架空の森を創造している』のではないかと思います。

無知故の全能感を戒め、学んで初めて無知を知り、都合の良い因果解釈に飛び付かない、情報過多の現代社会においてこそ、一層そうした姿勢が哲学者には求められるのではないでしょうか。

十六夜燕雀)