なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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正義と倫理

私はこの10年さまざまな哲学カフェに参加し、あらゆるテーマについて話してきましたが、未だに不得手なのが倫理に関するテーマです。倫理という言葉を聞くたびに、モヤモヤと違和感が立ち上ります。その違和感は、「正しいこと」に対する違和感に近いかもしれません。

そこで思い出したのが、以前、神保町で哲学カフェを開催していたときのお話です。そのカフェでは、毎回ゲストスピーカーをお招きし、その方のお話を聞いた後、参加者がテーブルごとにディスカッションするという流れでした。ゲストスピーカーとして、何度か東洋大学の前学長である竹村牧男氏にご登場いただきました。

竹村先生は、いつも事前にスタッフとテーマについて打合せをします。先生があらかじめテーマを考えているときもあれば、考えていないときもあり、そんなときは「どんな話がいいかな?」と尋ねられます。私たちは哲学カフェにありがちなテーマをいろいろ並べますが、あるとき先生が「正義」という言葉に目を留められました。

「正義というテーマ、いかがでしょうか」と尋ねると、先生は「そうですね……」と少し考えられた後、「仏教には正義という概念がありません。ただし、悪はあります。仏教では、他者を損ねることが悪とされています」と話されました。

私が「最近はSNSで正義を掲げて糾弾する人もいますね」と言うと「はい、世の中には正義を語る人がいます。しかし正義は人によって、時代によって違う。条件や立場によっても違います。だから他者に強制できるものではありません」と。

「そもそも正義という認識自体に問題性があるのでは。正義は"理"が勝ちすぎる傾向がある。もっと情を重んじてもいいのではないでしょうか。私は正義ではなく、情に発する倫理の話をしたい。そこには命への共感や慈しみがある」。情に発する倫理について具体的な例をお願いしたところ「たとえば川に流される子どもを見て助けようと行動する行動は、正義ではなく命への共感であるはず」とのこと。

川に流される子どもを見て「私はあの子を助けるべきかどうか」と検討し始めるとします。そして「ここであの子を助ける行動こそ正義である」という結果を導き出す。あるいは「私はあの子を助けるべきかどうか」を検討し「倫理的にはそれが正しい」と判断するかもしれません。どちらにせよ、その頃には下流に流された子どもの姿が見えなくなっていると思いますが……。

この2つは理由こそ違えど、どちらも行動は同じ。つまり「自分が考えて、正しいと思ったほうにBETする」という行動です。

しかし竹村先生が出した例は少し違います。川を流されている子どもを見た瞬間に体が動き、なんとか助けようとする。そのとき考えはなく、故に判断もない。では、なぜそういう行動を起こしたのか。そのときの体の状態について、竹村先生は「そこに命への共感がある」と表現したのだと思います。

たぶん私は「考える」倫理に対して違和感があるのでしょう。倫理、つまり人の行動の良し悪しは個人が頭で考えて決めることではないのではないかと。そのとき何かが起きていて、それを感知した自分の体がある状態になり、次の行動を引き起こす。そこに「命への共感」があれば「倫理」と呼んでもいいのかもしれない。そう考えると、私の中の倫理に対する違和感は少し減るような気がします。

※この話のあとで竹村先生が開催された哲学カフェの詳しい内容が知りたい方は、こちらのページをご覧ください。
(真)