なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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目にうつるものとは

哲学カフェのテーマを決めた理由について、世話人以外の方とはあまり話したことがありません。当日話すと参加者への誘導になってしまうので、なごテツとしては避けてきました。そして哲学カフェが終わればテーマの選定理由について語る必要はなくなるので、あまり触れることはありませんでした。
そんなテーマについて、今回は開催前に言葉にまとめてみたいと思います。

【目にうつるものとは?】
目に青葉 山ほととぎす 初鰹
見えているのは青葉のはずですが、なぜでしょう?
ホトトギスの声や初鰹も思い浮かべた方が
鮮やかなみどりを想像できる気がします
私たちは目の前のものだけを見ているのでしょうか?

以前、【目に見えないものとは?】というテーマで開催したことはあります。人によってはピンとくるかもしれませんが、「本当に大切な物は目に見えない」サン=テグジュペリが書いた「星の王子様」に登場する名言から引用させてもらいました。
前回のテーマの裏側が「大切なものとは?」だったとするならば、今回は「本当に視ているのか?」という、少し意地悪な、情報と認識の関係です。

目の前に葉の茂った木があるとしても、意識して見ない人の方が多いでしょう。新緑のシーズンなので「ああ、綺麗だな」と思う、あるいは季節を感じる人もいるのかと思います。しかし事前に俳人・山口素堂の句を目にすると、新緑の青葉に目が行く人は増えるのではないでしょうか。これは頭の中の情報に青葉を関連付けることで、目にうつるものは同じでも、意識にのぼる優先順位が変化したのではないのか? 本当にわたしたちは目の前のことを見ているのか、じつは情報を追認しているにすぎないのではないか。そんなことを考えてテーマに選びました。

それならば「情報と認識」というテーマでもよいのでは?と考える人もいるかもしれません、しかし具体的な言葉を選ぶと専門的な言葉の力が強くなります。「認知機能とは、視野と網膜と視神経が脳のどの部位で処理されるのか」などの専門的な見解からの発言を、「初ガツオにからしをのせるのがこの時期の楽しみ」とか「ホトトギスの声はなんて聞こえているのか」、「若葉は美味しそう」、「わたしは自分の目で見たものしか信じない」等の意見と対等にしたい。それならば言葉を少しずらし、曖昧にするのがよさそうですが、やりすぎると「ずらしすぎで意味が通じない」と言われてしまう。どのあたりがバランスがよいのだろうかと悩むものの、結局わたしは、参加者が自分の言葉で発言しやすそうな曖昧な表現を好んでいるようです。

さて、今回はどんな展開になるのやら。テーマがテーマだけに「目がかすむ」、「老眼」、「乱視」、「メガネ」の話題になった時の許容範囲をどうするか。視力が弱い人の比率が高い集団なので、視力の話題は盛り上がりすぎそうで怖い。新聞の容疑者の写真はなぜイメージに合うものが多いのか。サン・ラファエルで提供されるコーヒーは実はレベルがかなり高いが、その理由を聞いた場合、味の感じ方に変化はあるのか。マスクをしていると年齢がわからないが、外すとイメージが変わった。コロナ以前と以後で見方がかわったものとは…などと考えてはみるが、結局はいつもどおり予想外の方向にいくのだろうと思考を諦める。発言が停滞し過ぎた際に投入する言葉を考えつつ、あとは参加者の目にうつっているものに流れを任せてみたいと思います。

今回は停滞対策に、「右を向きたがる矢印」という存在を現地に持って行ってみたいと思います。
使わなくても盛り上がってくれればよいのですが、やっぱり自慢したいとも考えてしまう。
機会はなく懇親会でお披露目した、などとなってくれるのでしょうか。

(からす)