なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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条件の内と外

私達は、身体を持ってこの世に生まれ落ちた途端に、条件まみれの世界で暮らすことになる。時代、性別、人種、宗教、国籍、言語、体力、体質、容姿、地理的条件、家庭環境……。年齢を重ねて選択を重ねていくほど、暮らしの条件は狭まる。そして、ある条件下で思考し、判断し、行動する人となっていく。自分と重なる条件を満たした人を仲間とみなし、その後条件外の部分に目がいくと、離れたりする。時には条件外の人と争ったりもする。

こう考えると、人との対話が容易でないことは想像に難くない。ただ、自分が条件の内側で暮らしていることを意識できれば、世界の見え方は少し変わるのではないだろうか。

人は自分の条件の外を知りえないこと。際限なく違う個々の条件は、その身体と共に日々変化していること。相手と対するときは、わかると思わず、わからないと思って対すること。そして、人類全体の今の知識をもってしても、知りえないことは無限にあるということ。そんなことを意識することで、わからないながらも、条件を超えた世界を少しは感じられるような気がしている。

(MK)

「自分へのご褒美」という言葉への違和感

自分へのご褒美という言葉に違和感を持っています。

今日は頑張ったからいつもより美味しいものを
これはたまに思います
ちょっと前から耳にするようになった
これをやったら自分にご褒美をあげる
こちらに違和感をおもいます
わたしにとってのテーマの自由とからめて考えてみると

嫌なことをしたくないは
嫌なことから自由になりたいとする
嫌なことから自由になれないので
好きなことをできる自由とセットにする
良い取引のようにも見えますが
自分で自分に2重の枷を付けているように感じます
ひとつ目はタイミングを好きに選べるのに
セットにすることで嫌なことの後にしかできなくなる
ふたつ目は嫌なことを嫌うこと
これは自分自身の感情から不自由な状態と考える
嫌いという枷で感情に縛られているは
自分自身から自由ではない状態であり
逆に嫌いなことを楽しむことができるのならば
自由の範囲が広がったと考えられる
工夫次第で苦痛に感じることを苦痛に感じない
あるいは楽しめる可能性はある
この可能性を封じて苦痛を甘んじることになる
好きなことを好きな時にする
そんな最良の選択肢を封印し自分の可能性も潰してしまう
自分自身にも好きなことにも嫌いことにも失礼な行為なのではないか
などと考えていました

(からす)

誤解も理解

理解とは、誤解の総体に過ぎない(『かえるくん、東京を救う』村上春樹著)

当ブログの編集長から「誤解も理解」で記事を書いて欲しいと無茶ぶり依頼された時、ふとこの言葉を思い出しました。理解が誤解の総体であると言い切れるかどうかはともかく、私も常々誤解は理解の内だと思っていたからです。最初に断っておきますが、ここで言う「誤解」とは、冤罪や仕事上のトラブルなどの大きな実害を伴わない、日常会話や哲学対話の場などでのちょっとした誤解のことです(実害を伴う誤解は全力で解消しなければならないのは言うまでもありません)。

そもそも他人を完全に理解することなど不可能なので、「誤解も理解」くらいに構えていた方が楽だしメリットもあるのではという発想ですが、その理由として以下の二点が思い浮かびました。

一つ目。「愛の反対は無関心」と言われますが、理解の反対も誤解ではなく無関心、あるいは無視なのではないでしょうか。誤解するからには相手の話を聞いているわけで、それだけで無関心よりは一歩進んでいると思われます。

二つ目。哲学対話の場で、「自分の意見に他の人が共感してくれて嬉しかった」という感想を耳にすることがよくあります。共感を得て嬉しいと思う気持ちはわかりますが、そこで思考が終わる可能性があるのではとも思います。一方で誤解(反論)されると、そういう見方もあるのか、改めて説明するとしたらどうするのかなど、様々なことを考えます。思わぬ飛躍(新たな理解)につながることもあるでしょう。べラヴァルは『ライプニッツデカルト批判』の序において、「他人の意図を推し量るのはあまりに困難であると思われるし、それにまた、いかに多くの誠実な議論がつまらないものであることか。いかに多くの不誠実な議論が秀逸なものであることか」と述べています。

それでは、誤解されることに拒絶反応を示す人が多いのは何故なのでしょうか。これについても二つ考えてみました。

一つ目。誤解されて不快になるのは、理解して欲しいからではなく、虚栄心が損なわれた故であることが多いという説があります。『哲学探究』(ウィトゲンシュタイン著)の序文に、「自分の成果が様々に誤解され」ることによって「私の虚栄心は刺激され」たという述懐がありますが(あれだけの著作を残せるのならこのくらいの虚栄心を持っても許される気がしますが)、一般的に誤解されて不快に思うのは虚栄心によるところが多く、その虚栄心の拠り所は、自分はこうである筈だという虚像なのではないでしょうか。

二つ目。誤解した相手の言い方にもよりますが、一方的な「決めつけ」をされたときに不快感が高まることが多いと思います。これについては話をする側も、何らかの偏見や先入観に捉われていないか自問しつつ話を進める必要があるのでしょう。決めつけを避ければ、たとえ誤解があったとしても、そこから新たな対話の糸口が見つかるかもしれません。

話す側も聞く側もどうせ理解できないのだからと開き直ってはお終いなので、わかりやすく伝える努力と理解しようとして聞く努力を怠らず、その上で結果的に生じた誤解は新たな発見の種として楽しむ、という或る意味当たり前の結論です。ただし、そういう努力をする人ばかりではないですし、何の種も生まない不快なだけの誤解が世の中に溢れていることも否定できないので、そういう誤解は右から左に聞き流しましょう。多くの理解も右から左に流れていくのですから。

最後に「誤解も理解」で韻を踏んでみたいと思います。

Go解もRe解:解を求めて行けば再理解に辿り着ける?
五階も六階:六をりく(Riku)と読み、Rikkai→Rikaiで、五階も六階も変わらない?

お粗末でした。

(福)

編集部よりお知らせ:4月6日「"愛あるいじり"まで失われた世界」特設ページ(コメント募集)

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4月6日の哲学カフェのテーマは「"愛あるいじり"まで失われた世界」でした。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

カフェで話題に上ったトピック

  • いじりとは関係性を作る1つの方法
  • 正攻法で構築する関係とは違う関係性の構築手段
  • 良い関係を作りたいという気持ちが含まれる
  • いじりには、人間関係以外に目的、場、文脈がある
  • はれ物を触るという状態がいじりの反対的関係ではないか
  • ある特徴をあえて触る、公にするするのがいじりの特徴
  • 3秒で変えられるもの以外はいじらないというルールがある
  • いじられる上司は器が大きいと感じる
  • 愛あるいじりとは誰かを受け入れるためのもの
  • 似顔絵は愛あるいじりの1つではないか
  • 世の中はディズニーランドではないのでストレスはある
  • いじられキャラが他の人をいじると反発がでるのはなぜか
  • いじりが無い世界とは
    • 公然のタブーが生まれる
    • 関係性が希薄な世界
    • 単一化された世界
    • コミュニケーションの断絶が生まれる

進行役のコメント

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関係性の構築に時間がかかり、失敗するリスクもある〝いじり〟へのニーズがなくなっているのかもしれない。すぐに「いいね!」をする方が効率的だから。
一方で「いいね!」できないものとはそもそも関わらない、という態度が実は不寛容と分断を生むのでは?
ーーー
という考察に、なるほどと思いました。

当日参加された方もされなかった方も、コメントお待ちしています

顔より上に表れるもの

傘寿を過ぎて入院した叔母のお見舞いにいった。叔母はいわゆる器量よしタイプではないのだか、その日の叔母は、私が見たどの年代の叔母よりも美しく穏やかにみえた。思いの外元気そうであったのに加え、私にはそのことが嬉しかった。

年齢を重ねつつ、人は持って生まれた顔の上に、その嗜好や生活を上乗せしていくように思う。いわば表情、風情、風貌、オーラのようなものだろうか。内面のあるものが、はっきりとその人の軸になった時、容姿を上回り、表に溢れ出るのではないだろうか。また高齢になるほど身体は脆い容器のようになり、内面が表に現れやすいように感じる。もう取り繕う必要がないということかもしれない。

顔を見ただけで職業を連想させる人。とても裕福そうなのに、エゴイスティックさが現れている人。強い信念を持っている人。迷いの多い人。道を聞きたくなる柔和な人。

自分で操作できるものではないが、人は一人では生きていくことも死んでいくこともできない。年をとった時、ハリネズミみたいでないほうが、お世話になりやすいよな、と思ったりしている。

(MK)