なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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報われない社会は良い社会?

以前、某対戦ゲームについて、プロゲーマーの方々がこんな話をしていました。
「このゲームは面白い。勉強したら、練習したら、その分だけ結果に結び付き易く、努力した分だけ報われるゲームだから」

が、暫くすると今度は別の言葉が聞こえてくるようになりました。
「このゲームからは、既に多くの人が離れてしまった。実力が一定以上同士の対戦環境になると、メンタルが辛いから。負けても、他の何かの言い訳にしにくいから。自分の実力不足で、自分が原因で負けたという現実をモロに突き付けられるから」

似たような話は将棋や囲碁の世界でも耳にします。
「運負け」があるゲームは理不尽にも思え、敵味方で差があるゲームもそれ故負けることがあり、それを理由にクソゲーだの何だのと腹を立てることはあります。

が、逆に実力以外に言い訳の余地が無い対等なゲームは、「勉強すればするほど強くなる」という充実感を得易い反面、敗戦時のメンタルへの負荷が大きいそうです。

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さて、話は変わり、ゲームではなく社会の話。

昨今の日本は「親ガチャ」や「才能の民主化」など、その言葉の是非はさておき、SNS上では「不運」を理由に自身の現状を正当化する言説をしばしば目にします。

また、フェミニズムや障害者差別などの文脈においても、「自分が不幸なのは社会が悪いからだ」という『他力』的な言説をしばしば目にします。

個人的には、それらの言説は一理あると思う…のですが、今回はそうした話ではなく、
「そうやって『運』や『他力』のせいに出来る社会って、実は当人の精神衛生上は優しい、良い社会なのでは?」…という話です。

逆に言えば、
・努力すればした分だけ報われる
・誰もが自分の道を自分の意志で多様な選択肢の中から選べる
・生まれや環境に左右されない程に豊かな公的支援がある

という社会はすごく理想っぽいですが、人間の認識は相対的である以上、どんな環境でも周囲と比べ不幸を感じる人はいるもので、しかしそれを社会のせいに出来なかったら、それは絶望でしかない気もするのです。

実際似た話として、「多様な選択肢なんて要らないから、社会的に敷かれたレールの上をただ進めば良く、それで上手く行かずとも社会のせいに出来た時代の方が良かった」なんて声も耳にしたりします。

これはただの妄言ですが、
「幸福度が高い社会 なのに 自殺率が高い」
ではなく
「幸福度が高い社会 だから 自殺率も高い」
という側面もある…かもしれません。

十六夜燕雀)

基本的な立ち位置

先日の記事、MKさんの「世界共通言語」と、てんとうむしさんの「平和とは…」を続けて拝読させていただいて、そこからふわっと浮かんできたことを書いてみます。

てんとうむしさんの問いかけ「平和とは何でしょうか」のようなことを、ある人同士が語り合うとします。
その内容は、二人の生まれ育った環境や経験、知識から培われた観念が影響しますから、まったく同じにはなりません。もしかしたら真逆かもしれません。
その場合、その人たちのあり方によっては、一方が否定されたように感じて不快になる可能性があります。
そうならないためには、「聴く」方に重心を置くことが必要ではないかと思います。

「違いがある」ということを大前提にして、それを許容しあう暗黙のルールがあれば、その対話はとても平和で楽しいものになるはずです。ルールというか、基本的な立ち位置と言ってもいいかも。
違いを許容しあうことを、基本的な立ち位置とする。
そこに立っていれば、違いを見つけた時ほどテンションが上がり「面白い!」と感じます。

しかし、ここには少々ワナがあります。
二人が共に「相手との違いを楽しもう」という場所に立っていなくてはならないのです。
違いを楽しむ風を装いながら、相手の考えを否定し、自分の考えの優位性を主張するようではダメなのです。
「聴く」方に重心を置く、と言ったのはそのためです。
「聴く」姿勢が、違いを許容するという基本的な立ち位置に立たせ続けてくれるのです。

哲学対話の場においても、全員が「聴く」ことに重心を置けば、MKさんの書かれていたように、「条件抜きで語れる会話」が平和に楽しく成り立つ可能性があるように思いました。

てんとうむしさんが書かれていたように、春はいろんな花が咲きます。
Wonderful Worldを作っているのは「違い」です。
違いを見つけて許容し合って楽しむことが、平和なのでは……?と思ったのでした。

(ikue)  ゆる記事担当

 

 

 

平和とは…What A Wonderful World

見上げると、白色とも桃色ともいえる淡い色の花々の間から爽やかな青色の空が見える。
飛行機雲が二本のまっすぐな白い線を、青いキャンバスに描くように進む。

仕事休みの休日に桜が満開になり、私が家事を片付けている午前中に夫が作ったお弁当と共に、ボールと縄跳びなどの遊び道具を車に詰め込み、昼前にこの公園にピクニックに来た。
公園ではすでに桜の花見をする家族連れや友人同士のグループがそこかしこにビニールシートを敷いたりテントを立てたりして、それぞれの場所でおもいおもいの時間を過ごしている。

まるで祝福するかのように休日に満開になった桜を背景に、ロケーション撮影をする人たちがいる。
桜並木を歩く白無垢と袴をはいた初々しい夫婦に和やかに注文を出しながら、本格的なカメラを構える撮影隊。
新しいランドセルを背負ったまだあどけない顔の子どもとフォーマルな服で着飾った両親は、ソメイヨシノよりは色の濃い桃色の枝垂れ桜の下でポーズをとっている。撮影隊のそばにいるのはその子どもの祖父母だろうか?
きっと彼らには、忙しい日常の中で、この日のために積み重ねた多くの準備時間があったことだろう。

音楽が聞こえたので、子ども達と一緒に音のする方へ行ってみると、桜の木の下で色鮮やかなお揃いの衣装をまとった女性5人くらいがフラダンスを踊っていた。彼女たちの近くには、仕事を引退したと思われる年代の男女20人くらいのグループがレジャーシートを敷いてお酒を飲んだり、食べたりして座っている。その中にはギターを弾く人、歌を歌う人が複数人おり、仲間の生演奏で彼女たちは優雅に踊っているのだ。1曲終わると、近くでピクニックをしている他のグループや私たちのように通りがかった人たちは一斉に拍手をして歓声を上げ、その場に笑顔が溢れる。

私たち家族も桜の木の下のあるスペースにレジャーシートを何枚か敷き、子ども達とお弁当をつつき始めた。隣は桜並木の散歩道になっており、いろんな人たちが通っていく。
まだ生まれて数か月で首も座っていない赤ちゃんを父親が抱っこして、母親と3人で桜の木の下を歩いていく様子を見ながら、「そういえば、私たちも上の子が生まれた時、同じことをしたね」と夫と話す。
赤ちゃんの眠るベビーカーを押す2〜4歳の子どもと桜をスマホで撮影する両親の話す言葉が聞こえるが、それは日本語ではない。家族だけでこの時期にお花見をするくらいだから、もう日本での生活は長いのだろうか、と想像してしまう。

犬の鳴き声がすると思ったら、飼い犬を連れたグループが近くでお弁当を広げていた。犬友達なのだろうか? 今日みたいな日は散歩も気持ちがいいだろうし、一緒にピクニックをすれば飼い主同士も立ち話ではなく、ゆっくりと交流を深められるのだろう。
首輪をつけた猫と人間のカップルの組み合わせもあった。親しげに会話する二人の横で、小さなテントから時々顔を出して好奇心旺盛な表情を見せてくれるこの猫は、普段は家猫で屋外が珍しいのだろうか?

お弁当を食べ終わり、ボールをもって子ども達とキャッチボールをした。
野球のキャッチボールではなく、ドッチボールのキャッチボールだ。
お互いにコントロールが効かなくて、うまく受け取れずに走って取りにいかないといけなくて、真夏のように汗だくになった。しばらく続けていると、下の子のキャッチボールが次第に上手になっていき、驚かされる。
私たちの他には、父親と野球のキャッチボールをする少年、大縄跳びをしている小学校高学年の子ども達、簡易ネットを立ててバドミントンをしている中高生くらいの子もいた。
レジャーシートを敷いてお弁当を食べていた桜の木々の下と違って、少し場所が離れたこの芝生広場には、様々な年代の子ども達の楽しそうな声が溢れていた。今は一緒にこうして走り回って遊んでいる私も、今まで学んだこともないようなことを子ども達から教えて貰う日が来るのだろう。そんな成長が楽しみだったりする。

桜だけではなく、春はいろんな花が咲く。
公園内には手入れの行き届いた花壇もあちこちにあり、この日に合わせたかのように色とりどりのそれぞれの花を咲かせていて、通りがかりに見かけるだけでも心が洗われるようだった。
そこには、平和な時が流れていた。

(てんとうむし)

※    平和とは何かと考えた時、私には言葉ではなくLuis Armstrong の歌う「What A Wonderful World」が思い浮かびました。その歌の世界の解釈を、現代日本の公園でのお花見風景を基にしたエッセイで表現してみました。みなさんにとって、平和とは何でしょうか?
Louis Armstrong - What A Wonderful World (Official Video) (youtube.com)

世界共通言語

裏番組が増え、紅白歌合戦の視聴率が下がり始めた頃。冬の娯楽がスキー以外にも増え始めた頃。携帯が普及し、誰もがSNSで語り始めた頃。それまで同じ話題で繋がっていた人々が、少しずつ個人それぞれにシフトし始めたように思う。

余暇の過ごし方も人それぞれ。他の人と違うのが当たり前。自由な個人が増えるほど、共通の話題や語るべきテーマは減っていく。仕事の現場、趣味仲間どうしの会話、誰かの噂話以外では、当たり障りのない会話が交わされる。穏やかだが、深まらない会話。喧嘩もないが、繋がりは浅い。会話はあっても、対話にならない世界。

多様化した現代で、唯一誰もが深く関われる対話ツールが哲学対話なのでは、という気がしてきている。条件抜きで語れる会話。哲学対話=世界共通言語なのではないだろうか。

(MK)

「いじらない」なんて、なんてやさしい…………

 いまの子供らは、「いじらない」し自虐ネタにも反応しない…………。
 こんな文章を初めて目にした。ホントなのか?
 というのも、いまの社会は昔に比べそんなに「やさしい」世の中だとは思われないからだ。昔ならちょっと注意して終わり、だったことがいまはすぐに映像を撮る。そして拡散。あるいは間髪入れず公権力の介入。このどこが「やさしい」のか?
 表向きのキレイごとで「いじり」は良くない、としているだけのような気がする。

 確かに令和は「いじり」がなくて、一瞬パラダイスかな? と思いきや、すぐにインフェルノが待っている。そんな印象を受ける。
 或いは「やさしい」から「いじらない」のでは無く、たんに笑いのツボが異なっているだけなのかもしれない。それも充分考慮に値するトピックではあるのだが。
 しかし、じっさい令和の子供らの様子を見ている訳では無いので、本当のところはどうなのか? わからない。と言っては身も蓋も無いのだが。

(i3)