なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

メニューが開かない夜に、思ったこと

先日、レストランで注文しようとスマホを取り出したら、いつまで経ってもメニューのページが開かなかった。何度か画面を切り替えたり、電波マークを確認したりしたけれど変わらない。仕方なく妻に「ちょっと開かないんだけど」と声をかけて、妻のスマホでQRコードを読み直してもらったら、一瞬でメニューが開いた。同じ店、同じテーブル、同じiPhoneのはずなのに、片方だけつながらない。その差に、少し戸惑った。

原因は単純で、僕の回線が遅くなっていたことだった。僕はIIJの格安SIMを使っていて、契約している容量は3Gだ。もしかしたら2Gでもいいかもしれない、というくらい、普段はこれで十分足りている。ただし例外もある。ハイエースで旅に出るときや、取材に出るときはカーナビも回線を使うので、これだと足りなくなる。取材が立て込む月も、どうしても3Gには収まらない。そういうときは、必要な分だけ容量を追加する。振り返ってみると、こっちのほうが結局安いし、必要なときに必要な分だけ買うというやり方は、性格的にも運用的にも自分に合っているんだと思う。

ただ、ひとつだけ困ることがある。「いま低速になっているよ」という感覚が、自分にはまったくないのだ。だから、レストランでメニューが開かなかったときも、最初は店のシステムが悪いのかと思った。実際は自分の回線の問題だったのに、それに気づくまで少し時間がかかったし、妻のスマホであっさりつながった瞬間、なんだか少し気まずいような、妙な感覚があった。最近は「インターネットにつながっていること」が、生活の前提になっている。つながらない、というだけで、けっこう色々なことができなくなる。これはもう、単なる便利機能ではなく、インフラと呼んでいいレベルのものになっているんじゃないだろうか。

仕事でも、Zoomを使えば遠くにいる友人ともすぐに話せるし、取材も現地に行かずに済むケースが増えた。効率的だし、正直かなり助かっている。その一方で、実際に会って話すときの情報量の多さに、ときどき驚かされる。同じ内容を聞いていても、対面のほうが取材はスムーズだし、聞きたいことを深堀りもしやすい。「あ、こういう人なんだな」というのも、なんとなく伝わってくる。声のトーンや間の取り方、その場の空気みたいなものまで含めて、たぶん人はその存在そのものから、思っている以上に多くの情報を受け取っているんだと思う。

対面でしか受け取れない情報がある、と思っていたら、少し前に似たようなことをもっと極端な形で感じる機会があった。妻の入院が決まって、深川不動尊に護摩焚きに行ったときのことだ。病気が良くなるように、という願掛けだった。堂内は梵字で埋め尽くされていて、護摩壇の前ではマントラが唱えられていた。仏教自体はもともと嫌いじゃなくて、ブログでも何度か触れてきたテーマなんだけど、あの場の空気にあらためて興味を引かれて、帰ってから梵字について少し調べてみた。

仏を表す梵字には、たった一文字に膨大な情報を込めているものがあるらしい。

𑖀(a)という一文字は大日如来を表し、全宇宙や不生といった意味まで含まれているという

一文字がここまでの情報を背負えるのかと、単純に驚いた。データ量の話でいえば、これはかなり圧縮率の高い情報の持たせ方だ。

調べているうちに、マンダラの構造とインターネットの構造は、案外近いんじゃないかと思うようになった。マンダラは中心から放射状に仏が配置されていて、それぞれが独立しているようでいて、全体としてひとつのつながりを成している。ネットワークもそうだ。どこか一つのノードの状態が、遠く離れた別の場所に影響を及ぼすことがある。中心と末端、という単純な階層ではなく、あちこちが互いに影響し合っている構造。仏の世界も、もとからつながりを前提に成り立っているんだと思うと、通信でつながっている僕らの世界と、案外遠くないのかもしれない。

飲食店の注文も、カーナビも、Zoomでの取材も、気づけばどんどん通信前提になっている。それはそれで便利だし、手放すつもりもない。ただ、つながっていないものに触れたときにしか受け取れない情報も、たしかにあるんだと思う。

そんなことを思いながら、今日もIIJの容量を追加した。この操作ひとつも、どこかの基地局を通り、どこかのサーバーを経由していく。僕の手元の小さな操作が、ネットワークのどこかに小さな波紋を残しているのかもしれない。その波紋が、遠く離れた場所の、僕の知らない誰かになにか影響を与えているとしたら。それが、いい方向の影響であってほしいと、柄にもなく思っている。

(秋)

人間、「有限性」を与えられたもの

僕らは神じゃない。だけど、この限りがあるということ、「有限性」からさまざまな能力を獲得するに至った。
神の全知全能性。これは神の無限性に起因する。しかし、これは神の絶対的孤独と同値である。永遠のいのちを持ちながら何が孤独だというのだろう。いや、そもそも彼はいのちを持っているのか。生きているのだろうか。

生きているということ。それは無から有を生じた、その結果である。母となるひとの胎内で受精卵となったときに初めて、それは「僕」となった。この無から有への変換をもって、生きているということ、即ちいのちの誕生となる。

いっぽう、神は久遠の過去から神である。それは、昔は神ではなかったが、あるときをもって神に昇格した、というわけではない。
その無限性が災いして、彼は生まれるという経験をついぞすることがなかった。死ぬことがない代わりに、生まれるということもない。彼は生きているのではない。彼は神であったのである。

他者は何を考えているのか分からない、という。そうかもしれない。しかし、捕食者が近くにいる時、自分の身が安全なのか危険なのかが分からなければ、生き延びることはできない。逆に言えば、捕食者が何を考えているのかが、ある程度は分かるからこそ僕らは生き延びてきたのではないだろうか。

個体において、この能力は、感覚器官と推理力を用い、分からない状態⇒分かっている状態への移行を可能とする能力で、他者の心を読む能力とよばれる。そして、この移行が可能なのも、僕らが上記のそれぞれの状態を経験可能だということを大前提とする。
つまり、有限性を大前提とすると言えるのだ。
初めから分かっているのなら、他者の心を読む能力は必要ない。これが、無限性をもつ神のことを指しているというのは言うまでもない。

同様に無限性をもつ神は学ぶ・学習する、ということができない。同じく、飽きる・満足する・成長する・獲得する・安心する・好きになる・疲れる・眠くなる、などの能力も有限性を持っていることが大前提だ。そうして、同様に当然だが、死ぬ、という能力(生きているという状態と死んでいるという状態が可能なこと)も有限性をもつ僕ら特有のものである。

いにしえより、中動態の現象は神々の思惑に由来していた。その神々は自身が中動態の現象をついぞ経験することがなかったために、人間にその能力を与えたのだろうか。

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編集部よりお知らせ:7月18日「なごむについて」特設ページ(コメント募集)

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7月18日の哲学カフェのテーマは、「なごむについて」というテーマでした。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

カフェで話題に上ったトピック

  • なごみとは
    • 深度の階層:くつろぐ(身体)→ ほっとする(心)→ その先になごむ。くつろぎは一人で勝手に起こせるが、なごみは場を要する
    • 人称の違い:癒しは一人称で「癒されたい」欲求が透ける。得られるのは回復。なごみは複数形の感覚で、得られるのは一体感
    • 関係の向き:なごみは横の関係に生まれ、縦(序列)には生まれない。同じ目線・一緒に何かをすること
    • 開かれた空間:くつろぎ・癒しは閉じた自分の内側。なごみは第三者=外部が入ってくることを許せる雰囲気
  • なごみの条件
    • セーフティゾーン:沈黙が苦しくない場。話さなくても、放っておかれてもいい(電車やスタバで、ひとりではないが黙っていられる状態)
    • 緊張のゆるみ:張りつめが続いたあと、ふとほどける瞬間。時間・相性・緊張の度合いが効く
    • 共有された歴史:共に来し方を振り返り「年は違うが一緒だ」という一体性が生まれたとき
    • もふもふ・純粋さ:動物や子供の像。「神経が治っていく」感覚と結びつく
  • 和ませる人の在り方
    • メタ認知型(意識的):場を俯瞰し、誰にも刺さらず共通してなごめる言葉を選べる
    • 力学観察型(無自覚):末っ子に多い、人間関係の力学を自然に読む
    • 自己開示:弱みを一つ差し出すと、相手もゆるむ
    • 意外性としての冗談:体から自然に出る冗談でないと効かない
    • 外部の論理:閉じた場のホットな論理に外側の論理をぶつけ、沈黙を破る
  • なごやかな「場」の条件
    • 尊厳が守られること:番号で呼ぶ・人前で叱る・平準化があるとなごまない。個性が消えるとなごみも消える
    • 目的の統一と個の尊重の両立:同じことを言わされる場はなごやかでない。違う意見を言えて、かつテーマは共有されている
    • リーダーの資質:トラブルを大ごとにしない緩さが場に生きる
  • なごみの影
    • 投影の危うさ:動物も争い、子供も残酷たりうる。受け入れたい像を勝手に載せ、勝手になごんでいるだけかもしれない
    • 「なごませ役」への怒り:働きを役割としてラベリングされると矮小化と感じる。純粋さ・癒しを投影されること自体への抵抗

進行役のコメント

上下関係のはっきりとした職場で、どのようにしてなごやかな場が生まれるか、しっかりと理解したいと思いました。

慮ることの難しさ

先日のおなごテツは、「慮るとは」だった。慮ることは難しい。その難しさが、このテーマが選ばれた理由の一つかもしれない。対話を振り返りながら考えてみたい。

1.慮る立場と慮られる立場の違い

慮る立場では、相手に何を言うか、何を言わないかを判断している。相手の気持ちを想像して慮ることもあれば、相手の置かれた状況から判断して慮ることもある。では、慮るとは相手の心を推し量ることなのか、それとも状況の合理的判断なのか。また、受け取れる情報量は経験や感受性によっても変わる。その場の常識が判断基準となる場合もあるだろう。
例えば、「公共交通機関で席を譲る」場合には、相手の気持ちを推し量り、自分よりこの相手が座った方がいいと判断して「どうぞ」と声をかける場合と、この人が席に座ると恐らく助かるのだろうという状況判断から「どうぞ」と声をかける場合がある。どちらも慮っているが、それが相手にどう響くのかは別問題。自分より高齢だから席を譲ろうという共通認識から行動したことで、相手から「ありがとう」と言われる場合と「まだ席を譲られるような人ではない」と反発を受ける場合がある。
席を譲った際の経験の積み重ねが、「譲る」か「譲らない」か、どちらが慮ることになるのかを変える部分もある。

では、慮られる立場から考えてみよう。慮りを受け取れる人と受け取れない人の差は何か。それは、慮りを受け取れるキャパシティー(器)の大きさ、慮る人に対する好意の有無、さらには慮る人との関係性や距離感によって変わるようだ。
例えば、30歳くらいの時に若い青年から席を譲られた経験のある人のご意見では、「断ったら相手が恥をかくと思ったため、お礼を言って座った」という。同じ場面でも、過剰な慮りとして、困ってしまう人もいるだろう。これは受け取り手のキャパシティーの問題に関わるように思える。また妊婦の時に事情をよく知る家族から席を譲られるのと、マタニティー・マークに気づいた他人に席を譲られるのとでは、慮りを受け取る際の緊張感や感情も違ってくるかもしれない。お互いに信頼のある人間関係であれば、厚意も受け取りやすいのだろう。

2.慮る方法

慮る方法は、相手や状況によって言葉だけとは限らない。特に、相手が非常に辛い状況にある時、言葉は役に立たないことが多く、その人のために行動することが効果を発揮する場合もあるのだ。
例えば、学生時代に傷ついた経験から、私は友達の家に突然泊めて貰ったことがある。事情を知る友達以上に、そのお宅のご両親は何も聴かず、翌日事情を知らない近所の人から「畑仕事を手伝ってほしい」と言われ、私は一日働いた。当時の私にはたいした手伝いではなかったが、その人は「あなたのおかげで助かったわ!」と明るく感謝して下さった。たったそれだけのことだったのに、私は不思議と翌日学校に行けたのだ。
それは言葉ではない、友達一家と近所の人の優しい慮りだったように思う。
なぜあの出来事が、私には慮りとして届いたのだろうか。相手が何も求めずに差し出した行為だったからなのかもしれない。

3.本当に相手のためだけを考えた慮りはあるのか

さきほど、慮りが純粋な思いやりとして届く場合について考えた。では、慮りそのものに純粋性はあるのだろうか。相手を軸に言動や行動を起こす時、慮りの純粋性もあるのではないだろうか。つまり、相手のためだけの慮りはあるのだろうか。
それは、愛と慮りの差から、違いが見えてくる。
愛は特定の誰かへ向かう強い思いとして語られることが多い。
一方で、慮りはより広く他者へ向けられる配慮として考えられるかもしれない。慮りは、誰に対しても向けられる可能性のある配慮であり、その場の条件を考えながら行われるものとも考えられる。また、慮りには、自分自身が傷つかないための距離感や、相手への貢献欲が含まれる場合もあるのかもしれない。
そう考えると、慮りには、愛ほどの純粋性はないのかもしれない。

4.苦境に立たされた相手をどのように慮るのが効果的なのか

私が最も難しいと感じたのは、苦境に立たされた誰かを慮る時である。なぜなら、苦境にある人は既に傷ついており、こちらが慮ったことで、かえってその傷を深める場合があるからだ。
苦境にあった人の話から、ありがたかった慮りが二つ見えた。相手が自分のために時間や労力を惜しまず差し出してくれたことと、「してはいけないことをしない」とよくわかっている人の思いやりである。
このような慮りは、関係の近さや状況への理解が関わるようにも思えた。
苦境にある人を慮る時、私たちは相手のためを思っているつもりでも、その慮りが相手を傷つけることがある。
それでもなお慮ろうとするのはなぜなのだろうか。
そもそも愛と慮りは別のものなのだろうか。それとも、愛の一つの現れが慮りなのだろうか。

(てんとうむし)

映画館がスマートになってマンダラに躓いた話

先日、TOHOシネマズに映画を見に行った。平日ならほぼ毎日のように何かしらの割引が効いていて、1200〜1300円程度で映画が見られる。会員になっていないとダメな割引もあるけど、それを差し引いても、このクオリティをこの値段で味わえるのはオトクだなと素直に思った。

画面はでかいし、音もいい。一時期、家にホームシアターを作ろうと画策したことがあるけど、あの大きさの画面と臨場感のある音をちゃんと用意しようとすると、想像以上に大変だった。お金もかかる。それが1000円台前半で済むなら、こっちのほうがよほどコスパがいい。

チケットもネットで取れるし、席も選べる。そういえば前は、並んでも立ち見だったり、そもそも席が取れなかったりすることも珍しくなかった。指定席になっただけで、こんなに快適になるものかと思う。

チケットレス化も進んでいた。座席はもちろん、ドリンクも機械で注文すればすぐ出てくる。マクドナルドのあのシステムに近い。これなら聞き間違いも起きないし、レジ対応で列ができることもなさそうだ。ドリンクバーもあるから、注ぐところまでお客に任せてしまえばいい。なんとも効率的になったものだと思う。

しばらく映画館から足が遠のいていたんだけど、行ってみるとかなり進化を感じた。知っている人にとっては当たり前のことなんだろうけど、僕の中の「映画館」がアップデートされた日だった。

自分の中の当たり前がアップデートされるという意味で、もうひとつ最近あった出来事を書いておきたい。深川不動堂で護摩焚きを見たときのことだ。

マントラという、意味のない音が意味を持つ話

護摩焚きに参加して、初めて「マントラ」をちゃんと聞いた。「ノウマク サンマンダ……」という、あの呪文のような言葉だ。サンスクリットという、古代インドの言語で組まれている。

そういえば藤井風の「Prema」もサンスクリット語だったなと思い出した。「Prema」は、サンスクリット語で「無私の愛」「霊的な愛」「至高の愛」を意味する言葉だという。愛とか霊性とか、そういう抽象的な概念を表すのに、わざわざ古い言語を持ち出してくる感じが面白い。

ただ、マントラの面白さはそれとはちょっと違うところにあるらしい。マントラには、単語としての意味を持たない、聖音としての音節も含まれているのだという。密教ではこの「音」そのものが意味を持つと考える。

たとえば「a(阿)」という音には本不生という意味があって、全ての根源や本質は元々生まれていないので消滅することもない、「不生不滅」の「空」を表しているらしい。生まれていないものは死なない、という理屈だ。「a」は不生で、不生のものは滅しない。シンプルなのに、多くの情報が詰まっている。

「oṃ(オン)」も、宇宙の真理や永遠性を象徴する文字とされていて、大日如来の真言は、金剛界では「オン・バザラダトバン」、胎蔵界では「アビラウンケン」と唱える。両方をあわせて「オン アビラウンケン バザラダト バン」と唱える流派もあるらしい。

仏や知恵を象徴する種字もある。子音や種字にも意味があって、それらが連なったマントラには、文字数からは考えられないほどの情報と、それに紐づいたイメージが圧縮されているのだという。

立体曼荼羅を、ただ「かっこいい」で済ませていた

そんな話を知ったとき、ふと、空海が作った立体曼荼羅は一体どれだけの情報を伝えようとしているんだろう、と考えた。

仏の種類、配置、それぞれが結んでいる印、添えられた動物。それらを総合して立ち上がってくるイメージはどんなものなのか。正直、まったく想像がつかない。真言よりも多くの情報が具体的な仏像という形で存在している気がする。

今まで立体曼荼羅を見ても、「かっこいい」というくらいの感想しか持っていなかった。でもそこには、マントラと同じように、圧縮された膨大な情報が詰め込まれているんだろう。

マンダラ、奥が深い。

今年の夏、東京国立博物館で弘法大師生誕1250年記念の特別展「空海と真言の名宝」が開催されるらしい。東博に行く前に、こういう基礎情報をできるだけ仕入れておけば、今までより何倍も楽しめそうな気がしている。

映画館のシステムも、マントラの構造も、知らないうちに進化していたり、知らないままただ通り過ぎていたりする。アップデートのタイミングは、案外こういう脇道みたいな場所に転がっているものなのかもしれない。

(秋)