先日の記事、MKさんの「世界共通言語」と、てんとうむしさんの「平和とは…」を続けて拝読させていただいて、そこからふわっと浮かんできたことを書いてみます。
てんとうむしさんの問いかけ「平和とは何でしょうか」のようなことを、ある人同士が語り合うとします。
その内容は、二人の生まれ育った環境や経験、知識から培われた観念が影響しますから、まったく同じにはなりません。もしかしたら真逆かもしれません。
その場合、その人たちのあり方によっては、一方が否定されたように感じて不快になる可能性があります。
そうならないためには、「聴く」方に重心を置くことが必要ではないかと思います。
「違いがある」ということを大前提にして、それを許容しあう暗黙のルールがあれば、その対話はとても平和で楽しいものになるはずです。ルールというか、基本的な立ち位置と言ってもいいかも。
違いを許容しあうことを、基本的な立ち位置とする。
そこに立っていれば、違いを見つけた時ほどテンションが上がり「面白い!」と感じます。
しかし、ここには少々ワナがあります。
二人が共に「相手との違いを楽しもう」という場所に立っていなくてはならないのです。
違いを楽しむ風を装いながら、相手の考えを否定し、自分の考えの優位性を主張するようではダメなのです。
「聴く」方に重心を置く、と言ったのはそのためです。
「聴く」姿勢が、違いを許容するという基本的な立ち位置に立たせ続けてくれるのです。
哲学対話の場においても、全員が「聴く」ことに重心を置けば、MKさんの書かれていたように、「条件抜きで語れる会話」が平和に楽しく成り立つ可能性があるように思いました。
てんとうむしさんが書かれていたように、春はいろんな花が咲きます。
Wonderful Worldを作っているのは「違い」です。
違いを見つけて許容し合って楽しむことが、平和なのでは……?と思ったのでした。
(ikue) ゆる記事担当