なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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フルーツサンドの本質

近所にフルーツサンドが大人気の果物専門店があります。
いちご、キウイ、バナナはもちろん、季節のイチジク、シャインマスカット、マンゴー、メロンなどなど…
見た目も美しいし、生クリームもたっぷりぷりで、とっても美味しい!
しかし一個680円(一切れですよ。薄い食パン一枚分ですよ)くらいするので! ちょっとしたケーキ以上の高級品。

一度だけおみやげにいただいて食べて以来、いつか自力で買おう…と、おこづかいを貯めていたわけなのですが、ようやく貯まったので買いに行きました。
…というのは、ほんのりウソですが、そうは言っても庶民には高級品。
一つだけなら何を買おうか…激しく悩みました。(二つも買う選択肢は庶民にはなし)

しかし!
現場に行ってみると、すごい解決策が提示されていました。

【フルーツのないフルーツサンド】 380円。

要するに、生クリームだけが挟んであるフルーツ?サンドです。

これは…、どう考えても果物を別に購入して、自分で好きなだけ挟んで食べた方がお得。
というわけで、【フルーツのないフルーツサンド】をホクホクと迷わず購入~♪
ちなみに、果物は家にあったので買いませんでした。
ごめんなさい果物屋さん。

帰宅後、器に盛り盛りにしたブドウ(挟むには多すぎたので)を食べながら、生クリームサンドをいただきました。
ブドウを一つお口に入れて、生クリームサンドを一かじり。…至福っ!

…さて、しかしこの時、私は【フルーツサンド】を食べたと言えるのでしょうか。
フルーツサンドの定義とはなにか。

文字通り、果物が挟まれたパンのことを「フルーツサンド」と定義するならば、これは「フルーツサンド」ではありません。しかし私の今の満足感は、明らかに「フルーツサンド」を食べた時のもの。
「フルーツサンド」の本質が「美味しくて楽しいもの」とするならば、私は間違いなく「フルーツサンド」をいただいたと言えます。

…でも、そもそも「定義」ってなんだっけ?

調べると、
【定義…概念の内容や用語の意味を正確に限定すること。】
とありました。

正確に限定かー。そんなことは可能なのでしょうか?
私は何事も「本質」の方が大切だと思うので、「美味しくて楽しいもの」をまた買いに行こうって思いました。
それはフルーツサンドではないかもしれないけど。

(ikue)

真・善・美

 ギリシア神話の一場面を描いた絵がある。あとから知ったのだが、『不和の林檎 パリスの審判』というタイトルらしい。三柱の女神が一つの林檎を争奪する。林檎は最も美しい女神の物になるとパリス=牧童が言ったから。結果は〈美〉の女神アフロディーテの勝利となる。愛と美の女神なのだから当然じゃないか。ここまでは知ってはいたのだが、僕は残りの二柱の女神を勝手に〈真〉を司る女神と〈善〉を司る女神だと思い込んでいた。〈数学〉も〈道徳〉も〈藝術〉には勝てない、そう何となく結論付けその絵画のことを思い出していた。

 あとで調べてみると〈数学〉=〈真〉の女神だと思っていたのはヘーラーと言いゼウスの奥さんで結婚の女神。残りの〈道徳〉=〈善〉の女神だと勘違いしていたのはアテーナ―という名の女神のことで、戦争を統べる女神だった。

 絵画でその発端が説明されているトロイア戦争が、起こったのは紀元前13世紀頃の話だとされるから、プラトンが唱えた人間の最高価値説=真・善・美の紀元前4世紀よりもずっと昔のこと。プラトンのことなど知っている筈もない。もっともギリシア神話の成立はもっと遡り紀元前15世紀頃のことらしい。

 猶更プラトンの哲学とは遠い年月の隔たりがある。

 時代は一気に下って場所は日本。清く正しく美しく。言わずと知れた宝塚のモットー。清くは〈善〉を、正しくは〈真〉を、美しくは当然、〈美〉を表したものの事ともとれる。

 どれが一番難しいのだろう。まずは〈美〉から。最近の美学者は「絵は何の知識もなしに見て感じたまま鑑賞すればいい」と言う。だけれども美学というのは学問をすることにより、より深く美を鑑賞できるようになる、というものだと聞いたことがある。

 ちょうどクラシック音楽を聴いてそれを美学的に鑑賞できるレベルまで達すると、もう他の音楽、たとえばポップスや歌謡曲などは聞かなくなるという。それだけ深い音楽の聴き方がある。それをもって美を捉えたと言える、ということか。分かるようでわからない。マーラーの5番をプロのように聴くことが出来れば、ビートルズなど聴く気も起らない、というのは。でも美学を究めればそんな世界が開けてくる、らしい。

 では〈真〉はどうだろう。〈真〉を成立させる科学にはイデオロギーは入らないから容易なように思われる。しかし本当にそうなのだろうか。生物学におけるチェルネンコ。獲得形質は遺伝すると公言し、そのイデオロギーソ連共産党のそれと親和性があった為、党の公認の唯一の進化学者と看做された。

 同様に名前は忘れてしまったが、中国共産党イデオロギーに合致した素粒子論を展開した理論物理学者も党公認の学者として優遇されたという。ちなみにどのような理論かというと陽子を構成する素粒子はもっと小さな素粒子で構成されており、その小さな素粒子は実は元の陽子と同一であり、ここに階級の無い世界を見て取れるところが政治家の気に入ったのである。

 自由主義陣営ではそんな偏見はないから科学は中立的で真理に近いように思われる。とは単純には言えない。物理学では数式で表される法則が厳然と存在するように看做されている。ところがそれもキリスト教の色眼鏡で見た世界に他ならないという事が言えるのである。聖書に神は〈世界〉という書物をお書きになったと取れる部分がある。そこから欧米人は物理の法則が存在するということを演繹したのだ。神が自身の作った法則を読み解いてみよ、と言われていると。

 極微の領域では実験値は必ずしも数学的法則の存在を証明しない。だがそこに数学的法則が現前するという前提で西欧科学は成立している。確かめようがないのだ。誤差の解釈は任意である。そんな微小な領域のはなしは別に意味がないと思われるかもしれない。でも人間に自由意志があるのかないのかに関わる興味深い問題である。

 以上〈真〉も一筋縄にはいかないようだ。最後の牙城〈善〉はどのような感じになるだろうか。〈善〉は倫理の問題だ。どうするのが人間として正しいのかを探る学問である。或いは〈真〉でかつ〈美〉と言える部分を見極める学問でもある。だから二つの学問の結果を流用さえすればよく、しかしその二つの学問のそれぞれが難問となるわけだ。

 

(i3)

要約ということ

 先日、「夏に見たい絵」というブログを書いた際、世話人の井上さんが、その絵の切手を持っていると、写真を送ってくれた。切手を見て驚く。現物とは構図がまったく違い、全体の印象は別物。これは本当に同じものといえるのか。

 改めて見比べてみて(といっても現物とではなく、複製もどきと)、切手というものは、原作の縮小版ではないことを思い知る。そして、切手サイズにとっては、そのトリミングがベストであることも頷けた。これは切手という、別の作品というべきなのだろう。驚いたのは、自分が切手からも作品と同じものが伝わる、と思い込んでいたことだ。

 転じて、文章や概念を要約しようとする時にも、似たようことが起きているのかもしれない。要約することが、オリジナルを誰かの目線で、あるサイズに適した形に落とし込む行為だとすると、変換後も同じものであるという保証はない。

 要約された情報見出しの中で暮らしているような昨今。要約だけを見て暮らしている人と、時間をかけてオリジナルと向き合っている人の中に生まれるものは、似て非なるものであるのかもしれない。

(MK)

【8月のお題】 夏休みの宿題(注:怖い話)

久しぶりにTUBEの「あー夏休み」を聞きながら、これを書いているわけですが……紳士淑女の皆さん、もう夏休みも終わりですよ。

えっ? やっぱり日本の夏はサザンだろ、って? はい、大好きです。 ええ、もちろん異論はございません。

ええっ、オメガトライブも忘れるなって? 同意です。 君に1000%同意ですが、歳バレますよ?

先に進ませていただいてよろしいでしょうか?          ……はい。

夏ということで、ちょっと怖い話をしたいと思います。

親戚の中学生と「今年は修学旅行が中止にならなくて良かったねえ」なんて世間話をしていた時のことです。

彼が「それはいいんだけど、夏休みの宿題が終わんねえス」とのたまうんですよ。

あー、あったなぁ、夏休みの宿題。

「俺も全然 終わんなかったし無問題(モウマンタイ)だよ!」とも言えず、不覚にも「まだ一週間あるし頑張って」的な、判で押したような励ましをしてしまった私。

金太郎飴でも、もうちょっと個性があるんじゃない?と思うぐらい、無個性なコメント。 自分でも驚きました。

当事者意識がないことについては、こんなにも没個性的になってしまうのかと。 もしかして、これがハイデガーの言う「頽落」ってやつ? 怖いよ。

ちなみにですが、2008年生まれの彼は、サザンは知っているけど、オメガトライブは聞いたことない、と言ってました。

それでもめげず、「カルロス・トシキは今やニンニク王なんだよ!」という、ファン以外には意味不明の講釈を垂れていたら、「あっ、浪漫飛行の人?」って言われました。 それカールスモーキー石井な。

いやあ、ジェネレーション・ギャップって怖いですね!……って、そういうオチではありません。

「無問題」と言えば、先日NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組でも、「なぜ夏休みの宿題は終わらないの?」というクイズを出していました。

答えは「これからやることを、7つしか覚えられないから」

少し長いですが、理由も紹介させてください。

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人間の脳には長期記憶と短期記憶がある。

読み書きや、自転車の乗り方など、生きていく上で必要なことは、反復学習と継続利用によって、長期記憶に定着する。

また、楽しかった修学旅行や、オメガトライブのライブなどは、強い感情を伴うので、思い出(長期記憶)として脳に残る。

それ以外の多くのこと、つまり日常生活のあれやこれやを担当しているのが短期記憶。

目的が達成されると、すぐに忘れる記憶のことである。

長期記憶が学習ノートや日記だとすると、短期記憶は冷蔵庫に貼るメモだと考えれば分かりやすい。

スーパーの買い物リストは買い物が終われば捨ててしまう。

このメモ(=短期記憶)の弱点は、一度に書き込めるタスクが7つほどしかないこと。

しかも、この限られたToDoリストの中で「すぐやること」と「楽しいこと」を優先する性質がある。

これが夏休みの宿題とすこぶる相性が悪い。

長い夏休み、まだ時間の余裕があるなーと思っているうちは、宿題は「すぐやること」には入らない。

旅行、ゲーム、夏祭り、プール、オメガトライブの(略) 、などなど「楽しいこと」が次々とやってきて、優先的にリストを占める。

かくして宿題は優先順位7位までに入ることができず、ギリギリまで先延ばしにされる運命にある。

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「なるほどぉ、夏休みの宿題は終わらない、これは科学的に証明された真理なのか」と妙に納得してしまった、という話。

ええッ、全然怖くない? そんなの子どもの時から分かっていたぞ、って?

いやいや、紳士淑女の皆さん、ここからなんですよ。

この番組を見て、社会学者の大澤真幸氏の講義で聞いた、あるお話を私は思い出したのです。

「裏返しの終末論」という話です。

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3.11の原発事故を考えよう。

震災のずっと前から、大地震津波が起きた時の原発の安全性に対する専門家の指摘はあったという。

大惨事を招く危険が潜んでいると知りながら、しかも時間的猶予がありながら、なぜ然るべき対処ができなかったのか?

その理由は、"絶望できていなかったから"だ。

いつでも破局的状況が起こりうるのだ、と理屈では分かっているつもり ― でもね、それは確率の上での話。

実際に3.11までは「まあ、しばらくは大丈夫じゃないか」「結局は起きないのかもしれない」という"希望"を持ってしまう。

それが人間の性。

本当に為すべきことを為すには、破局は絶対確実に訪れるのだと"絶望"しなければならない。

これは原発に限らず、気候変動対策でも同じこと。

今、人類に必要なのは、希望ではなく絶望なのだ。

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「さあ紳士淑女の皆さん、絶望しましょう!」って、どうです? なかなか怖いお話じゃないですか?

それにしても、どこか似ていませんか?

まだ余裕があると思って、夏休みの宿題に着手すらできない人間の短期記憶。

「しばらく大丈夫だろ」という希望的観測で、潜在する危機への対応を怠った東京電力や政府機関。

私の中で、この2つがリンクしてしまったのです。

もちろん、上記の話を全て鵜呑みにしようとは思いませんし、原発についても、違うご意見があるでしょう。

そもそも、気候変動のような世界的な問題を、夏休みの宿題という個人レベルの話と一緒くたに語るのは、適切とは言えません。

同時に7つしか覚えておけないショボーい短期記憶と違って、政府機関などの関係組織では、日々、為すべきタスクが確実に実行されているはずです。

綿密な長期計画のもとに。 そのToDoリストに漏れはないはず。 私も、そう信じたいですよ。

ただ、3.11について言えば、東電や政府は宿題を終えられなかった……と言えるのではないでしょうか?

そう考えると恐怖です。 ある意味、怪談よりもリアルに怖い。

さて、人類が取り組まなければならない宿題、いくつもあります。

たとえば、2050年までのカーボン・ニュートラル達成という難題。

2050年と言えばですよ、中学生の彼が、ちょうど私の歳になって……いない! 42歳! Ouch! まだ私よりも●歳も若い。

あぶないあぶない、危うくサバをよむところでした。 あと28年という歳月、余裕がありそうで、意外とスグかも……。

パンデミックが抜き打ちテストだとするなら、気候変動は期末試験だ」と、ある科学者は言っています。

そっかあ、期末試験なんてものもありました。

しかも宿題提出と同時に期末試験かよ。 休みが終わってほしくない。 2学期が憂鬱ですね。

できれば永遠の5歳児でいたいですね。

ホモ・サピエンスラテン語で「賢いヒト」という意味だと言います。

けど、この賢いヒト、22世紀に進級できるんでしょうか?

すみません。 なんだか、怖い話じゃなくて、だんだん暗い話になってきちゃいました。

書いている私も、もう限界です。 feel so blueです。

こんな時は、あの名曲を聴いて、心を潤すべし。

「Stop the season in the sun

  心潤してくれ

  いつまでも このままで いたいのさ」

              シーズン・イン・ザ・サン (TUBE)

mot

おなごテツで話題に上った『幸福の王子』は幸福か?

先日のおなごテツ「世のため、人のためって何のため?」で話題になった『幸福な王子』、私はストーリー(特に結末)をちゃんと覚えていなかったので、終了後あらためて読んでみました。

ツバメは当初王子に引き留められて仕方なく宝石を貧しい人達に運ぶのですが、王子の目であるサファイヤを届けた段階で(王子の目が見えなくなった段階で)、自らの意思でエジプト行きを断念し、死を覚悟した上で王子の元に留まることを選びます。ところがこの王子、自らの死期を察したツバメがお別れを告げに来ても、旅立ち=エジプトに行くと勘違いするという見事な鈍感っぷりを示します(現実世界でもこの組み合わせ、よくあるような……)。ツバメは息絶え、その時王子の鉛の心臓も真っ二つに割れてしまいます。その後みすばらしい姿となった王子像は溶鉱炉で溶かされ、残った鉛の心臓と捨てられたツバメの死骸が最後に天使の手によって天上に運ばれた、というラストシーンでこの物語は終わります。

幸福の王子』とよく比較されるのが、同じ童話集に入っている『ナイチンゲールと赤い薔薇』という作品です。このお話では、若い学生に愛を捧げるナイチンゲール(夜鳴鳥)が、その学生が探し求める赤い薔薇を用意する為に自らを犠牲にします。ナイチンゲールの血で薔薇が染まっていく場面は、いかにもオスカーワイルドという美しい描写で描かれています(1970年代に『まんが世界昔ばなし』でアニメ化されていたということを知って驚きました)。そこまでして用意した赤い薔薇が結局は役に立たず捨てられる、という皮肉な結末が用意されていますが、このお話は、愛が一方通行で報われない、わかりやすい構造になっています。

これに対し『幸福の王子』の構造はやや複雑です。王子の行為には愛があったのか、ツバメは最終的に王子を愛していたのか、王子は心臓が真っ二つに割れる前にそれを受け止めたのか、彼らは幸福だったのか、幸福とな何なのか、解釈がわかれるところです。王子とツバメが天国に召されるという結末もハッピーエンドのように見えますが、寧ろより捻った皮肉と取ることもできます。

王子とツバメが幸福であったとしたら、天国に召された時ではなく、ツバメは王子への愛を認識した瞬間に、王子は心臓が真っ二つに割れる直前にツバメの愛を受け止めた(或いは受け止めきれなかった)瞬間に、幸福を得たのではと私は思います。

「幸福」ということばには、何か憂鬱な調子がある。 それを口にするとき、すでにそれは逃げ去っている。 よい思想はけっして人間独自の仕事ではない。 それは人間をとおして流れ出るだけのものである。
ヒルティ著『幸福論』より

王子とツバメは幸福だったのか、みなさんはどう思いますか?
青空文庫に翻訳テキストあります。

(福)