なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

● なごテツからのお知らせ ● ←ここをクリック!


真・善・美

 ギリシア神話の一場面を描いた絵がある。あとから知ったのだが、『不和の林檎 パリスの審判』というタイトルらしい。三柱の女神が一つの林檎を争奪する。林檎は最も美しい女神の物になるとパリス=牧童が言ったから。結果は〈美〉の女神アフロディーテの勝利となる。愛と美の女神なのだから当然じゃないか。ここまでは知ってはいたのだが、僕は残りの二柱の女神を勝手に〈真〉を司る女神と〈善〉を司る女神だと思い込んでいた。〈数学〉も〈道徳〉も〈藝術〉には勝てない、そう何となく結論付けその絵画のことを思い出していた。

 あとで調べてみると〈数学〉=〈真〉の女神だと思っていたのはヘーラーと言いゼウスの奥さんで結婚の女神。残りの〈道徳〉=〈善〉の女神だと勘違いしていたのはアテーナ―という名の女神のことで、戦争を統べる女神だった。

 絵画でその発端が説明されているトロイア戦争が、起こったのは紀元前13世紀頃の話だとされるから、プラトンが唱えた人間の最高価値説=真・善・美の紀元前4世紀よりもずっと昔のこと。プラトンのことなど知っている筈もない。もっともギリシア神話の成立はもっと遡り紀元前15世紀頃のことらしい。

 猶更プラトンの哲学とは遠い年月の隔たりがある。

 時代は一気に下って場所は日本。清く正しく美しく。言わずと知れた宝塚のモットー。清くは〈善〉を、正しくは〈真〉を、美しくは当然、〈美〉を表したものの事ともとれる。

 どれが一番難しいのだろう。まずは〈美〉から。最近の美学者は「絵は何の知識もなしに見て感じたまま鑑賞すればいい」と言う。だけれども美学というのは学問をすることにより、より深く美を鑑賞できるようになる、というものだと聞いたことがある。

 ちょうどクラシック音楽を聴いてそれを美学的に鑑賞できるレベルまで達すると、もう他の音楽、たとえばポップスや歌謡曲などは聞かなくなるという。それだけ深い音楽の聴き方がある。それをもって美を捉えたと言える、ということか。分かるようでわからない。マーラーの5番をプロのように聴くことが出来れば、ビートルズなど聴く気も起らない、というのは。でも美学を究めればそんな世界が開けてくる、らしい。

 では〈真〉はどうだろう。〈真〉を成立させる科学にはイデオロギーは入らないから容易なように思われる。しかし本当にそうなのだろうか。生物学におけるチェルネンコ。獲得形質は遺伝すると公言し、そのイデオロギーソ連共産党のそれと親和性があった為、党の公認の唯一の進化学者と看做された。

 同様に名前は忘れてしまったが、中国共産党イデオロギーに合致した素粒子論を展開した理論物理学者も党公認の学者として優遇されたという。ちなみにどのような理論かというと陽子を構成する素粒子はもっと小さな素粒子で構成されており、その小さな素粒子は実は元の陽子と同一であり、ここに階級の無い世界を見て取れるところが政治家の気に入ったのである。

 自由主義陣営ではそんな偏見はないから科学は中立的で真理に近いように思われる。とは単純には言えない。物理学では数式で表される法則が厳然と存在するように看做されている。ところがそれもキリスト教の色眼鏡で見た世界に他ならないという事が言えるのである。聖書に神は〈世界〉という書物をお書きになったと取れる部分がある。そこから欧米人は物理の法則が存在するということを演繹したのだ。神が自身の作った法則を読み解いてみよ、と言われていると。

 極微の領域では実験値は必ずしも数学的法則の存在を証明しない。だがそこに数学的法則が現前するという前提で西欧科学は成立している。確かめようがないのだ。誤差の解釈は任意である。そんな微小な領域のはなしは別に意味がないと思われるかもしれない。でも人間に自由意志があるのかないのかに関わる興味深い問題である。

 以上〈真〉も一筋縄にはいかないようだ。最後の牙城〈善〉はどのような感じになるだろうか。〈善〉は倫理の問題だ。どうするのが人間として正しいのかを探る学問である。或いは〈真〉でかつ〈美〉と言える部分を見極める学問でもある。だから二つの学問の結果を流用さえすればよく、しかしその二つの学問のそれぞれが難問となるわけだ。

 

(i3)