なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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死を恐れもせず、死にあこがれもせず --鴎外忌に『妄想』を--

七月第一週のテーマその場決め、「死の意味」が選ばれたようですが、その日は残念ながら参加できなかったので後日チャットのログを読ませて頂きました。生と死、死と宗教、安楽死、不老不死など様々なキーワードが飛び交うログを読みながら、ぼんやりと頭に浮かんだのが森鴎外の文章です。

鴎外と言うと安楽死を扱った『高瀬舟』を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、私が考えていたのは『妄想』という自伝的短篇小説について。
この作品は、老境に達した「翁」が、千葉の海辺の別荘で自らの人生を振り返るという形になっています。

「翁」は、ハルトマン、マインレンデル、ショオペンハウエルなど、様々な哲学者の死に関する考えに触れつつ、「多くの師には逢つたが、一人の主には逢はなかつた」と呟きます。そして、「死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く」のです。

哲学にも宗教にも拠り所を求めることができない、寒々しいような心象風景ですが、一人淡然と坂を下っていく姿には、こうありたいとか、ありたくないとかを寄せ付けない覚悟のようなものを感じます。

鴎外の遺言書には以下の有名な一文があります。

「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」

これについて山崎正和は、『鴎外 闘う家長』で以下のように述べています。

考えてみれば、「石見人」は鴎外にとって生涯もっとも帰属感の薄い範疇だったはずなのである。(中略)この実感のない言葉を対置することによって、彼は文士としても、歴史家としても、思想家としても、さらにまた森家の家長・森林太郎としても死ぬ実感のないことを表明していたように思われるのである。

死を前にして、自らの人生における様々な属性とも、関係性とも、そして死そのものとも、凄然と距離を保ち続けたのでしょう。冷たそうに見えますが、これも或る種の人間らしさなのではと私には思えます。

私は好きな作家の命日にその作家の文章を少しだけ読むという妙な習慣を持っています。
7月9日は鴎外忌。鴎外忌に『妄想』、いかがですか。
青空文庫にテキストあります

(福)