先日のなごテツは「テーマその場決め」でした。
毎月第一土曜日のおたのしみ。
参加者から先着で5つ出されたテーマの中から、多数決でその日のテーマが決まります。
この日に多くの票を集めたのは『死の意味とは』でした。
興味ある人が多かったようです。
(ちなみに私が出した『大人と子どもの違いってなに?』は、ほぼスルーでした・笑)
このテーマを提案された方からは
「…人命が最上の意味をもつという価値観があり、死はよくないとされている。しかし『死』とは決してネガティヴなことではなく、次の世代に引き継ぐためには必要なプロセスではないか。日本でも長寿が称えられ安楽死も認められていないが、生命が必然的にもっている『死』を、もっと評価してもよいのではないか。」
という投げかけがありました。
私も『死』をネガティヴなものとは捉えていないのですが、『死』の意味が「世代交代」にしかないとも思えません。
もっと純粋に、ただ『死』という言葉で表わされる状態に、意味があるのではないでしょうか。
その状態とは、動き、話し、笑い、時には怒ったり泣いたりしていた存在が、パタリと動きを止める…。たいていの人には「見えている」ものしか認識できないので、それで「終わった」「死んだ」ように見えます。
でも、もしかしたら「つづき」もあるかもしれません。
もちろん、「つづき」があるかないかは、『死』という状態に自分がなってみないとわかりません。
でも、突然停電になって、観ていたテレビドラマがぷつっと切れてしまったとしてもドラマの続きがないわけではありません。観えなくなっただけで、つづきはあります。
『死』もそんな感じで「つづき」がありそうに思います。
だとしたら『死』とは単なる「変化」の途上の一区切りの名称に過ぎなくなります。
ちなみに「老い」に関しても、何十年も生きているうちに目が見えにくくなったとか、シワが増えたとか、足腰が痛いという状態を「老い」と名付けているだけで、単なる「変化」だと思います。
その年になって初めて知った感覚を、まだ三十年くらいしか生きていなかった頃と比べて「老いた…」と表現するのです。
ほんとのところは、三十年だけ生きていた頃の感覚とは違う感覚を感じるように「変化」しただけです。
人生はよく「季節」に例えられますが、季節に『死』はあるでしょうか。
夏から秋になれば、秋風とか紅葉とか、春夏にはなかった変化が起こるだけです。
我が家の庭の紫陽花も、冬の間は完全に枯れたように見えているのですが(毎年心配するほど…)、春になると少しずつ葉を出して、六月には美しい花をぼこぼこ咲かせます。
ということは、冬すなわち『死』とは言えません。
人間も自然物ですから、『死』のように見える状態からも「つづき」があるのではないでしょうか。
枯れた葉を落とすように肉体を捨て、春までの間をどこかで(あの世?)過ごしているとか…
ただ、そうは言ってもそれは見えない世界なので、私たちに見ることができるのは『生きている』と呼ばれる状態でいる『今』だけ。
だからこそ、「見えているこの時間」を大切にしよう、と考えます。
そう考えさせるところが、『死』という言葉で表される状態の意味、ではないでしょうか。
…結論を書くと、なんだかとってもアタリマエな感じがしますけれど~
アタリマエの結論を自分なりに確認できるのも、哲学カフェのよいところです。笑
(ikue)