以前の記事「言葉の力」へのコメントで、私は「英語は“違い”を前提とした“あなた”と“私”の(三人称はそれほど重視されていない)言語だと思っている。だから、自分を相手に理解して貰うためには、自己主張は欠かせないのだろう」と投稿した。それに対する記事執筆者のコメントには、「話している2人が重要で、それ以外は一回り小さく意識されている。対立的関係になりやすいと思います」とあり、ちょっとモヤモヤしてしまった。 一体何にモヤモヤしてしまったのか、自分の考えを整理して記事にしてみよう。
最初に引用した私のコメントは、私の前にコメントした人をフォローしつつ、記事で紹介された映画「メッセージ」をテーマにした哲学カフェの内容を説明する内容だった。このカフェに参加していない、あるいはこの映画を観たことのない読者に対し、具体的にわかりやすく伝えようと長めのコメントを書いた。
私の英語に対する言語の見方は、記事内容に対するささやかな個人的意見だった。記事執筆者が、長いコメントの中から自分に向けられた意見に気づき、的確に、しかも端的に返信をして下さったことは、とてもありがたかった。なぜなら、私はさらに考えるきっかけを得たからだ。
なごテツブログに限らず、SNSでコメントする時に難しく感じるのは、誰に向けてメッセージを送っているのかが明確に示されていないからだろう。記事の執筆者や、コメントくれた人に対して返信しながら、同時にそれを読む読者(silent majority)を意識する必要がある。その読者の背景や価値観は、わからない事が多い。多様な背景を持つ読者に対する想像力が、多様な立場の読者への配慮に繋がるのだろう。
私は時々、コメントに英語を使う。記事の執筆者宛、もしくはコメントをしてくれた人宛に向けたメッセージであることを意識するためだ。 しかし、対立関係を作るために英語を使っているわけではない。これが、私のモヤモヤの原因のひとつだと思った。
漠然とした日本語に対し、英語が豊かで明確であることは確かだ(当然、逆もある)。
「違い」を知って、相互に理解するためには、「何となく同じであることが当然とされる日本語」よりも、「違いを明確にさせるような英語」のほうが適しているのではないか。多様な背景を持つ人とお互いの違いを認め合い、一歩踏み込んだ相互理解に近づくのではないか。英語という言語体系から来る思考は、その意味で有効だと思っている。
ただ、「何となく漠然と同じである、似ている」ことによって親近感や共感を抱き、仲間意識を醸成しやすい文化であれば、そのような考え方で相互理解しようとする事が、そもそも対立を生みやすいのかもしれない。(このあと、後編に続く)
(てんとうむし)
※コメントは承認制となりました。詳細は以下の記事をご覧ください。