なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

なにを失えばあなたはあなたでなくなるか

2025年12月号の科学雑誌NEWTONには、「人間や社会のあり方を問うAI時代の哲学」についての特集がある。その中に「『あなた』が『あなた』である基準はどこにあるか?」という自己同一性(アイデンティティー)を問うものがある。
p.56にある思考実験の引用から少し考えてみよう。

この思考実験では、私たちは、自分が「体」、「脳」、「脳内の情報」のどこにいるかを考えさせられる。

先日のおなごテツは「なにを失えば、あなたはあなたでなくなるか?」だった。問いかけは違っていても、問われている本質は、NEWTONの問いと同じだと思った私は、すぐさまこれはアイデンティティーの問題だと捉えた。つまり、自分らしさとは何か、どこに自分らしさを見出しているか、だと解釈した。それは、努力してもなかなか変えられない自分の内的性質だと捉えたのだ。

NEWTONでのアイデンティティーの問いとおなごテツでのアイデンティティーの問いは、本質的には同じことを訊いているのに、考える方向性(答えの出し方)に大きな差があったと後になって気がついた。
NEWTONでの問いは「私」という存在を「体」「脳」「脳内情報」として分割して考え、どこに自分らしさがあるかを探す。
一方で、おなごテツでの問いでは、自分の人生や生活全般から、自分らしさが発揮される一部分を見出す。
どちらが正解だということはない。
例えば、私は“「感受性」が私らしさを決定する”と意見したのだが、NEWTONの問いに答えるなら、それは「脳」が要だろう。ただし、その「感受性」を発揮できる過程には、違和感がある。「感受性」は、「体」を通して五感から感受した外部刺激を、過去の経験(「脳内情報」)に照らし合わせて、「脳」が解釈・判断する、という過程から成り立つからだ。どれほどバーチャルに「体」を似せて創り、メモリーとしての「脳内情報」にアクセスでき、「脳」が判断を下せるようになったとしても、本当に今の私と同じ判断はできるのか?と疑問に思えてくる。

なぜなら、判断基準が過去の経験則だけでないことに対する違和感こそが、私の「感受性」が働く場合も多いからだ。その場に居合わせて感じる「何かおかしい」「これは何だろう?」という直感や未知への好奇心が、その後何年も続く思考を始め、答えを得ようとする中で調べものや読書、誰かとの対話、旅行や外出などの刺激を受け、再び考えることを繰り返し、私らしい時間として流れていくからだ。これは「感受性」が起点になって未知の世界を切り拓くことで、「脳内情報」の集積としては巨大であっても、新たな創造が苦手なAIには難しいことではないだろうか。だから“取り出した「脳」にのみ私は存在する”とは言えない気がしたのだ。

おなごテツでは、私の「感受性」は、「直観」から「観察」を経ているので、「観受性」とも言えるのではないか、という貴重なご意見も頂いた。まさに私の人生という長い時間の中から「感受性とは何か?」を見つめた時に出てくる視点である。

また、私が気になったのは、日々の生活時間の中から見た「私らしさとは何か?」という側面のご意見だった。仕事をしている時間、誰かと接している時間が、自分にとって居心地が悪く、自分らしくいられない場合、『うちに帰ってホッと一息つき、好きなことをしている時間にいる「私」こそが、「私」そのものだ』という視点である。それは、私らしくいられる環境条件である。

「『あなた』が『あなた』である基準」を分割した自分自身に見出すのではなく、自分が置かれている環境条件(自分の外界)から見ているのだ。例えば、「他者との関わり」ができる環境、「選択できる自由」が保障された環境とも言えるかもしれない。

「なにを失えばあなたはあなたでなくなるか?」
「『あなた』が『あなた』である基準はどこにあるか?」
この問いをどの視点でどのように捉えるかによって、答えは変わってくる。
あなたにとって、失われたら“あなたでなくなる”ものは、内側か、環境か、どちらにあるのだろうか。

(てんとうむし)