以前おなごテツでボンヘッファーのこの言葉を紹介したことがあります。
ボンヘッファーは、若くして神学博士となり天才と謳われながら、ヒトラー暗殺計画に加わった罪で絞首刑に処せられたドイツのキリスト教神学者です。
『獄中書簡集』には以下のような記述があります。
神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる。
ここで言う「作業仮説」とは、何かわからないことがあると「神さま」を持ち出して説明する際に使用される、便宜的ツールとしての仮説を指します。
ボンヘッファーは、聖書の神はそのような仮説に利用されるものでははないとし、「限界においてではなく真っ只中において、弱さにおいてではなく力において、従って死や罪を契機にしてではなく生において、また人間の善において」語られる神であると捉えていました(以上、引用は『獄中書簡集』村上伸 訳より)。
神なしに生きるために、常に神の前に立っている。神という言葉(存在)を選ぶかどうかはともかく、人が何らかの絶対的存在と向き合うということはそういうことではないでしょうか。
人はそうやって日々神的なものと共に生きていると思います。
キリスト者であったボンヘッファーが暗殺という行為を選択したことについては後世の評価が分かれますが、「車にひかれた犠牲者に包帯をまいてやるだけでなく、車そのものを停める」という考えの下、反ナチス運動に身を投じたと伝えられています。
今読むと、とても重く感じられる言葉です。