なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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ノイラ―トの船

ウィーン学派の中心人物の一人と言われるオットー・ノイラ―トは、知識の総体を港の見えない海上に浮かぶ船に例え、「われわれは船乗りのようなもの--海原で船を修理しなけばならないが、 けっして一から作り直すことはできない船乗りのようなもの--である」と述べています(『アンチ・シュペングラー』より)。

この比喩、企業研修や教育現場などで引用され、都合よく(?)解釈されていますが、元々は基礎付け主義に対する反論です。

日常においては土台が有っても無くてもとにかく修理しながら進むしかありません。しかし、知識総体そのものに土台が無いのか、これはまた別の問題です。

マクタヴェルという倫理学者は、前出のノイラ―トの船について、地面がないことに気づいたとしても眩暈を覚える必要はないと述べています。

眩暈が起きるのは仕方ないのではと考える人もいるでしょう。港が見えないとしても港そのものが消えるわけではない、あるいは地面が無いとしても有る体で進んだ方が良いのでは、と考えるのも一つの方法です。

少し広げて考えると、7月最終週に予定されている「人それぞれ」のテーマとも関わってきそうです。絶対的なものなど何もない、と言ってしまうのは簡単ですが、様々な条件や状況下で土台を探ってみるのも面白いと思います。

テセウスの船」や「船と船人」など、船に関する比喩は沢山ありますが、ふと思い出したのがフェデリコ・フェリーニの「そして船は行く」という映画です(フェリーニファンにはあまり評判が良くないようですが)。混沌や茶番や悲哀を詰め込んで船が海原を進んでいく、そして最後に……。結末はここには書きませんが、船とはそういうものなのかもと笑いたくなる作品です。

(福)