なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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苦しみのクオリアへようこそ

先日の哲カフェ、「苦しみの意味とは」は恐らく最強の難問の類だったのだろう。

 

途中で『苦しみが持つ、生命維持のためのアラート機能以外の意味は何ですか?』との問いが為された。答えるのに皆、窮してしまった。或いはその問いを充分理解できないでいた。僕もその一人だったのだが。『苦しみがもつクオリアとは一体何なのですか?』この問いが数日間、僕の頭から離れなかった。つまり解決不能、まったくのお手上げだったのだ。以下はその軌跡である。

 

生命とは放っていけば無生物へと解体されてしまうもの。この宇宙を貫くエントロピー増大の法則が、容赦なく降りかかってくるからだ。それに抗う、換言すればエントロピーを減少させようという試みのうちに、生命は現象として成立する。

 

その努力をする指針としてのアラートが、苦しみに他ならない。面倒くさく書いたが、僕らは放っておけばお腹が空いてしまい、それを解決するために行動する、ということだ。

 

朝起きて歯を磨き髭をそる。或いは髪を整え化粧をする。そうして会社に行って、給料をもらう。その金で空腹を満たす。そのサイクルが延々と続くように娯楽にも金をかけ、パートナーを見つけ生気を取り戻す。明日も朝が早い、もう寝よう。

 

個人レベルではその毎日が、人間という種レベルではその文明が、「お腹が空いたよー。」というアラートに突き動かされての賜物である。

 

もう少し補足すると、①〈アラート発動〉▷②何とかして食べものを得たい⇒③生存競争に打ち勝つ必要性⇒④その為に大脳が発達⇒⑤副産物として様々な特性(生きがい、復讐心、利己心、強欲、好奇心、共感力etc.)を持つに至る⇒⑥と同時にそれらに由来する悩み・苦しみを背負うこととなる(所謂頭が良すぎることから来る宿命)、という訳である。

 

ここで①の「お腹空いたアラート」=原初の苦しみ、とは別に⑥のような様々に高度・複雑化したアラート=あらゆる苦しみ、が生まれたことに注意しよう。だけどこれらは①のアラートから派生したものである。

 

「ではあなたの苦しみは生命に付随する現象として、いや生きることの別の謂いとして受容できますか?」との問いに必ずしも「然り」とは言えない自分もいる。

 

もし自分が患っている宿痾が完治するとすれば、これ程嬉しいこともないし、(絶望的だが)そう願っているからだ。それでも、もしこの苦しみに意味があるとすれば次のことだけだ。

 

「生きるのって大変だよね」と、人と腹の底から吐露しあうことができる、それだけだ。

 

ではその人、つまり自分以外の人間が誰一人としていなくなったら?その時、僕の苦しみはただの拷問と化す。

 

拷問にかけられ、ただ一秒でも早く息を引き取ることだけを願う人間に、課せられた苦しみの意味とは何なのか。或いは病床で、医師はペインマネジメント以外何も打つ手がなく、それも効かなくなって兎に角、死がすべてを解決してくれるのを今か今かと待っている病人の苦しみの意味とは。

 

人の苦しみに意味があるとすれば、それは苦しみを克服した残りの人生があってこそだ。たとえ、その残りの人生が天国という捏造されたものであったとしても。そして最後の考察のレアケースにおいて宗教心のない現代人にとって、苦しみの意味とは一体どう解釈すべきか。

 

この苦しみのクオリアの意味は何なのか。「意味などない。生命の持つ場違いなクオリアだと言うだけだ」との答えには笑えない。

 

この苦しみのクオリアに意味がなければ人は耐えられない。この状況は信仰を持っている人でも耐えられるかどうか覚束ないが、科学・理屈教の無自覚的信徒であるわれわれ多くの人間には、死など比べ物にならない程に恐ろしい。

 

恐らくこの苦しみのクオリア自体には合理的或いは哲学的意味は何もない。それにぶち当たったときは無様に泣き叫ぶしかない。それすらできない程の苦しみのクオリアなのかもしれないが。

 

もしこの苦しみのクオリアに意味が付されていれば、だれも昔から地獄などを恐れてはいなかった筈だ。地獄という恐怖からの解放は「(苦しみのクオリアの)意味を得る」ことではなく、(地獄など存在しないという)「確信を得る」ことによって成されたのだ。

 

歴史上何百年と(或いは何千年と)地獄というものを恐れ続けてきた何億何兆の人々の存在が、苦しみのクオリアに意味などない、との証左ではないか。

だがそれでも、この苦しみのクオリアの意味は何か、と考え続ける人々がいる。

 

『病牀六尺』を残した正岡子規。彼は痛みで寝返りを打てない程だったという。彼の苦しみにどんな意味があったかは知る由もないが、彼の人生の意味は著作を読む者すべてに強烈なインパクトを与え続ける。

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