なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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しょうがない…………の?

「しょうがないだろ」「他に方法が無いんだから」。こう自分に呟いて、不本意ながら納得していることがある。自分の職業について、である。

 

ひとは納得せずに何かをする、ということはない。絞首刑が決まり、首に縄を掛けてもらうという時も、「ここでどうあがいても、結局俺は死ぬ他ないんだから」と呟いて大人しく首を差し出す。お陰で刑務官も職務を遂行できる。

 

思えばうんと小さかった時、病院で注射の針から逃げ出さなかったのも「しょうがない。そういうもんなんだ。」という諦めの納得からだった(こちらは別に悪い事ではないが)。

 

それ以来、僕はどれ程この諦念に従って不本意な生を生きて来ただろうか?「ほんとに他に方法は無いのか?あるのかもしれないけど、もう考えるのも面倒だ。仕方がないだろ」。またそう呟いて毎朝、地下鉄の駅へと向かう。「俺はこの程度の人間なんだ。いや、そんなことない。だからこの仕事、いつでも辞める覚悟はある」と、今ではもう、こう呟くことすらせずにルーティン・ワークをこなし、「あと20分で昼休みだ。何食べよう?」などと独り言ちり、小市民的幸福に浸っている。

 

それでも、特別嫌なことがあると「俺はこのまま定年まで、ここにいるのか?」とぶつぶつ言いながら、自分の来し方を振り返る。「俺は頑張っても、せいぜい〇〇大学にしか入れなかったんだ。やっぱしょうがないかー?だけど俺がもし東京大学を卒業していたら発狂してるぜ、この会社」。特にブラックな会社ではないが、満足とは程遠い毎日に諦観しているのは、ひとつには〇〇大学卒という自分の学歴からだった。

 

学校教育制度は何の為にあるのか。世の中には面白くない仕事でも、誰かがやらなければならないものだ。〇〇大学卒ならこういう会社、△△大学卒ならああいう会社、××大学卒ならもっと別のあんな会社という風に、本人を納得させるために学校教育制度は作用しているのでは、と思うことがある。こう言うと、「何言ってんだ。本人に能力さえあれば、どんな仕事にも就けるんだ。」と100点満点の答えを宣う方々がいる。

 

しかし、誰もが「俺の能力をもってすれば、もっと別な仕事に就ける可能性がある。今就いている仕事は不本意だー」と思っている社会はあまりにも不安定だ。誰もが上を目指し現在の仕事をおざなりにしてしまうから。どんなつまらない仕事も誰かがやらなければならない。できれば本人に納得してやってもらわなければ、社会が不安定化してしまう。

 

それを防ぐひとつの手段が人の生まれた階級に従い職も決まるという身分制度であった。「俺の家は代々〇〇を生業としてきた。だから俺も〇〇をする他はない」という観念が社会を安定化させる。邪念を持たずに自分の仕事に専念できるのだから。

 

けれども身分制が崩れた現在、何かがそれの代わりをしなければならない。それが学校教育制度というものではないか。新たな身分制としてのそれは、昔の身分制に比べれば、否定されるべきことは少ない。本人さえ努力すれば、どんな学校にも入れるというのが売りである。逆に良い学校に入れなかったのなら、それは本人に責任が帰せられる。そうして本人に反省してもらい、社会を安定化させる。また、どんな教育を受けていようとも本人に実力さえあれば、どんな仕事にも就ける筈という人道的通念が学校教育制度を補完する。

 

もし人道的通念がほんとの常識になってしまえば、つまらない仕事しかできないのは皆自分の能力不足ということになる。やけくそになっている労働者が無視できない程の数となる。それも社会を安定させる方向からは遠い。やはりワンクッションおいて、〇×大学卒だから、自分はこの仕事くらいしかない、と納得してしまうくらいが巧妙で穏当な社会制度の賜物ではないか。すべてを本人のせいにするのではなく、学力のせいにするほうがまだ、自由社会の弊害が少なく都合がよいのではないか。

 

どんな社会でもつまらないが必須の仕事というものはある。それをどんな人にやってもらうか。それも納得して。それが社会の制度というものの一面に他ならない。学校教育制度、この呪わしきもの。

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