なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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区別のプロセス

 『区別する気持ち』本編が終了し、雑談の終了時間も押し迫ったころ、「私たちは何かを経験すると、それは新たな知識の獲得である、とも言い換えることができるでしょう。そんな経験≒新知識には有用なものと無用なものに『区別』することが出来ると思います。有用な経験として、みなさんはどんなものをあげることができるでしょうか?」という言葉を受けて、「経験により分かったことに基づいて、何かができるようになるか」という話になった。
 たとえば何度もハンバーグを焦がして、丁度よい調理時間がわかる。そうしてそのように調理のコツを会得することにより、美味しいハンバーグが焼けるようになった、という訳である。
 このプロセスがすべてに於いて当てはまるのなら、「50回目のトライで、漸く逆上がりができるようになった」というケースはどうなのだろうか?
 1~48回トライした経験では逆上がりができなかったのである。49回目のトライの経験で何かが分かる。その分かったことに基づいて、漸く逆上がりができるようになった。
 そんなシェーマが成り立つはずだ。1~48回目の経験と49回目の経験のあいだには断絶がある。そののち逆上がりができるようになるかできないかの差だ。1~48回目の経験で分かったことなど物の数ではない。49回目の経験が尊いのである。
 49回目の経験で初めて分かることがある。そしてその分かったことで何かが変わる。もう50回目はそれに基づき逆上がりができるようになるのだ。
 だが、実際僕の記憶では48回目と49回目の経験に、そんなに差があったとは思われない。ただ、その後に逆上がりができたのかできないのかという結果から逆算した経験の差異が想定されたというだけのことだ。
 1~48回目の経験で分かったことと49回目の経験で分かったこととの差は殆どない筈である。
 以上の考えの何処が間違っているだろうか? ひとつには1~48回目の経験で分かったことが49回目の経験により活きて来るという事実を見逃しているということだ。
 もし49回目の経験でわかったこと以外を記憶から消去してしまえば——つまり1~48回目の経験で分かったことを記憶から消去できたとしたら——50回目のトライは無残な結果に終わるだろう。
 1~48回目の経験で分かったことと49回目の経験で分かったことの間には断絶など無い。たとえ直後のトライで逆上がりができたかできないかの違いはあろうとも。
繰り返すが50回目のトライにより1~49回の間に習得したものが活きて来る。1~49回のチャレンジがあるから50回目のチャレンジが成功する。
 そのように考えれば——いや、そう考えねばならないだろう——何の問題も発生しない。
 過去の経験により分かったことはその後の時間により熟成され相転移を起こすのであろう。勿論その逆も同様である。現在の意味は過去により変わる。過去の意味も現在に左右される。そういうことだ。

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