なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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完全性への憧れ

人間には、自分と似たタイプと、真逆のタイプがいる。そのことについて考えてみたことはあるだろうか。

似たタイプは相手に対して理解も共感もしやすく、逆に自分も相手からそうされやすいだろう。比較的早く、簡単に仲良くなれるかもしれない。真逆のタイプは刺激的で、場合によってはその違いが喧嘩の原因になることもある。それでも、私は自分とは真逆のタイプの相手を好ましく感じることがある。
自分の欠点に明確に気づくのと同じ部分で、他人の長所を鮮烈に感じることがある。それが魅力的に映るから、好ましく感じるのだろう。それが、たとえ“他者という鏡”に投影された自分の理想(幻想)だったとしても。
ある時、その感覚が「完全性への憧れ」という言葉に合うと納得した。
以前のおなごテツで、完全性への憧れに関連する書籍としてシルヴァスタイン作(倉橋由美子訳)の「ぼくを探しに」(講談社)という絵本が紹介された。私はその本を購入して読み、「完全性への憧れ」に思いを馳せた。

完全性への憧れ。
人間は誰しもが不完全だからこそ、そういった憧れを持つことは避けられないように思う。
しかし問題は、その完全性への憧れをどうするかだ。自分の欠けた部分への扱いとも言える。
その対応には、主に3つあると思っている。
1)自分に欠けた部分を長所として備えている他者を求める
2)欠けた部分を補うように、自己成長を目指して努力する
3)欠けた部分を含めて自己受容する


1)欠けた部分を補いたいがために他者を求める場合、例えば、友達や恋人に自分とは真逆のタイプの相手を選ぶことがある。そうすれば、身近な存在から自分にはない良い影響を貰えることだろう。
しかし、そんな友達や恋人が身近にいても、その自分の欠けた部分は決して埋まらない。他者に欠片(カケラ)を埋めてくれるように期待したところで、他者と自分は違うのだ。他者が影響を与えてくれることはあっても、そのカケラは自分ではない。一心同体はあり得ない幻想だと思えてくる。
それでもお互いの違いを認め合うように対話を重ねて、ある程度歩み寄ることはできる。そうすれば、補完関係としての良好な協力関係は構築・維持することが可能だ。それはお互いが独立した関係ではないかとも思う。

そこで次に考えるのが
2) 欠けた部分を補うように、自己成長を目指して努力することだ。
例えば、自分とは真逆のタイプである親友と一緒に演奏活動をしていた時期があった。その友達はリズム感が抜群だったが私にはなく、逆に私には友達にない絶対音感があった。

友達は歌詩の言葉に敏感で、言葉から音楽の物語や感情を感じるタイプだった。
一方で、私は歌の言葉の発音が楽器の音と同じような音楽に聞こえるので、言葉の意味を考えることよりも、言葉の韻やメロディーに合う言葉の音からその音楽の感情の推移を感じ取り、そこから物語を想像するタイプだった。つまり、私は音を聴く代わりに、言葉を聴いていなかったのだ。

だから、よく友達から「リズム感大事。歌詞(言葉)の意味を考えよう」と言われ、衝突も多かった。
これは、私がその友達と別れ、別の音楽仲間と演奏するようになった時も指摘されたことで、実際の演奏で失敗し、学んだことでもあった。当時の私は、音楽と向き合う中で自分のリズム感と言語能力のなさを苦々しく味わった。
それは自分が学んで克服しないといけない壁だったのだ。
だから、私はドラムの先輩からリズム感の指導を得て、リズム練習の時間を作った。
集中して音ではなく歌詞を聴いて、時間をかけてその言葉の意味や解釈について考えるよう意識するようにした。それまで苦手だった読書をして、わからない言葉は辞書をひいて語彙を増やし、言葉からの解釈の幅を広げようと努力した。

そうした努力の先にあるのが、越えられない壁だ。
その壁を前にして、それでも努力を続けるのか、諦めるのかが問われる。
つまり、最終段階に来るのが
3)欠けた部分を含めて自己受容する、だ。
これを人生の成長物語として捉えると、年齢を経れば必然的に考え得ざるをないテーマになってくる。
成長期であれば、努力して身につく能力や伸ばせる才能があり、成長スピードも速いが、大人になると徐々に緩やかになる。努力を続ければ維持も、場合によっては亀の歩みで能力も伸びるかもしれないが、努力の限界を感じる時が来る。自分にとって得意・不得意の違いもわかるようになる。
その時に、人生の有限のエネルギーと時間の中で、自分の欠けた部分を必死に埋めようと努力し続けるのか、欠落部分を持つ自分を含めて充分だと自己受容できるのかが問われるのだ。

どちらがいいのかは私にはわからない。その人の生き方の問題で、人によって正解が違うのだろう。
けれど、完全性へ憧れながらも、欠落のある自分の存在を受け入れられれば、欠落部分からくる劣等感からの自己否定より、むしろその欠落があるからこその自分の良さ(存在意義)に気づくかもしれない。

(てんとうむし)