なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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『見知らぬ男』--「外」への扉を閉める時--

 対面の哲学カフェでお世話になっていた川瀬雅也先生をなごテツにお招きするに先立って、先頃発売された『ミシェル・アンリ読本』を読んでみました。アンリの哲学については先生のお話を待つとして、ここでは、「まえがき」で触れられていたプルーストの『見知らぬ男』という短篇小説について考えてみたいと思います。以下、簡単にあらすじを紹介します。

 毎晩夕食に多くの友人を招いていた裕福で魅力的な男ドミニクは、ある夜突然「ドミニク」と呼びかける声を聴きます。声の主である見知らぬ男は自分を夕食に招くように言います。他の連中なしに過ごすすべを教える、ただし自分を呼ぶなら他の客たちは断らなければならないと。ドミニクはそんなことはできないと断りますが、見知らぬ男は更に続けます。「君は習慣のために私を犠牲にした。(中略)間もなく君は私を殺してしまうだろう。(中略)私は君の魂なのだ。君自身なのだ」と。
 会食者達が入ってきて、客の一人が「絶対にひとりでいてはいけない。孤独は憂愁を生み出す」と言う中、いつものように楽しい夕食の時間が始まりました。

『ミシェル・アンリ読本』ではこの小説について以下のように述べられています。

この短篇でプルーストが「客人」として描いたのは、決して単なる「他者」ではなく、自己にとっての「外部」、「外在性」そのものだと言えるだろう。プルーストは、外部や外在性との関りのうちで、自己を、自己の内的生を見失い、忘却し、それを抹消してしまう人間の姿を描こうとしたように思われる。

 見知らぬ男が言う「君の魂」とは何なのでしょう。「客人」を断るとはどういうことを意味するのでしょうか。私は、単に他人をシャットアウトして自分と向き合うということではなく、もちろんデジタルデトックスとかそういうことでもなく、人は一時的にせよ瞬間にせよ、すべての「外」を遮断して自己の内的生を見つめる決断が必要になる時があるのではないかと思って読みました。これまでに自分がそういう決断をしたことがあるのか、これからできるのかはわかりませんが。

 アンリの「内在」とは、自らの外に出る超越の根拠であると共に、あらゆる超越の不在において自己の内に留まることだと言われています。などと書くと、ますますわからなくなってしまいますよね。
 私自身まだよく理解できていないアンリの「内的生」の世界を、当日参加者の皆様と一緒に覗いてみたいと思います。

(福)