先日の哲カフェでは、『実力』という言葉は良いニュアンスを感じさせるもの、或いは直截的に褒め言葉であるとして、対話が為されていったようだ。
しかし、わたしは当初からこの言葉にどこか不穏な雰囲気を感じ取っていた。
『期限までに不法占拠している場所から退去しないのなら、当局は実力を行使して排除する』
この当局が行使する『実力』というのは『暴力』の事に他ならない。ただこの『暴力・武力』は皆に認められた、手続きを踏んだ『正義の暴力』であることを意味する。
それが暴力と言わずに『実力』と言うことの意味ではなかろうか?
ちなみに、この当局に暴力の権限を与えた『皆』の中には『不法占拠している』者も含まれる筈だ。手続き的には(それが法治国家の意味するところだ)。
すると、『不法占拠している』者は自らの意志で自分を『当局』により『排除』しようとしている、という構図が出来上がる(それが法治国家だ)。
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『実力』者はなんらかの欠損者である。
わたしが子どもの頃は『人気のセ・リーグ、実力のパ・リーグ』という言葉が人口に膾炙していた。もちろんプロ野球のことだ。
パ・リーグは力量では遜色は無くとも、TV放映システム(という言葉で合ってるか心もとないが)を持たなかった(新聞社球団の不在)。観客動員数にしてもセ・リーグには及ばなかった。
そういったプロデュースの力が残念なことにパ・リーグには足りないようだった。よってパ・リーグは『実力』派と呼ばれることと成ったのだと記憶している。
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『運も実力のうち』という言葉がある。
入試では優秀な学力の持ち主を一発勝負で選ばなければならない。大学側は。
そして受験生は『本来の学力』を一生に一度の機会で発揮しなければならない。
そのため、『運』が結果に関与する。しかし、何度も何度も試験をすればその『運』の影響を逓減させていくことが出来る。それが『実力テスト』と称されるもので、残念ながら入試には関係しないが本来の持っている学力を測るものである。予備校などが何度も何度も実施する。
人間はプレッシャーがかかるとこの本来の学力=『実力』を出しがたくなる。ムカデがどうやって歩くか一本一本の足に神経を集中させると歩けなくなるというように。
人は、繰り返しやってきたことはあまり考えもせずにササッとこなすほうが上手くいく。高校までの学問などその部類である。医者の行う簡単な手術もその仲間らしい。
『実力』など、その程度のものかもしれない。
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