なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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音楽で建てられた凱旋門:後編

※前編はこちらにあります。

言葉を使わない思考の存在:感性と感受性、感情とは何か

ガルトマンの絵画を見てムソルグスキーが作曲する思考は、私には感性を通した非言語の対話に思える。しかも、生きている者とすでに亡くなった者との。作曲することは音の言語を使って物語を綴ると捉えることができるかもしれないけど、非言語による思考を通して作品を創造すると捉えることもできるようにも思える。

実際、大脳の構造は前頭葉頭頂葉後頭葉、側頭葉から成り立っていて、側頭葉の機能は記憶、言語、音の解析を行っている。音楽を理解するのは、言語を理解するのに近い可能性はある*1。しかし、絵画を見た際の感情を音楽表現として創造することは、言語理解とは違った脳の機能を使っているだろう。感性は、人やもの、出来事、作品、景観などに出会って何事かを感じ取り(感受することは、何かをインプットすることかもしれない)、それを理性が咀嚼し、意味のある認識を形作る。つまり、深い思考を経て意味を紡ぎ出す。しかもそれを適切な形で表現(アウトプット)できて初めて、確かな「感性」と呼べる。そしてこの感性の営みは、「感受性」にフィードバックされてそれを確実に高める*2。画家や音楽家が高い感性を持っているのは、感受性がそもそも繊細で鋭いだけでなく、成長過程での経験の意味づけや自身の活動そのものによって磨かれているからで、個人によって異なる多様性がある、と言える。
さらに、この作曲の背景には、ガルトマンとムソルグスキーの生死を超えた強固な友情があり、現代に生きる音楽家達がそれを感受性で受け取って演奏を通して感性で表現したものをコンサートの聴衆に確実に感じさせるのは、作曲技術・演奏技術だけでは成り立たない。また、AIのような論理的思考力や膨大なデータから学習するDeep Learningのような知能だけでは感動的な演奏が成り立つとは私には到底思えないのだ。人を感動させるには、音楽家の感性と聴衆の感受性の相互の響き合いが必要で、コンサートが言語を超えた音楽家と聴衆の対話でできているというのは、こういったところからきているのではないかと私は思う。

私が生のオーケストラ演奏を聴いて心に思い浮かべた情景は、思考というより、私自身の感受性からくる想像力によるもので、それは非言語で脳が感じていることだろう。五感を通して感情が刺激されているからこその情景で、いわゆる心の風景そのものだ。私にとってこの感情は心地よい感情で、この日は帰宅後、いつになく頭が疲れたなという感覚はあったものの、穏やかに安眠でき、翌朝は爽快感があった。

では、そもそも感情とは何だろう? 脳科学でわかっていることを調べてみた。
人間の感情は、脳の中心部に近い部分にある「大脳辺縁系」の中の「偏桃体」で生まれる。この「大脳辺縁系」と生命維持に関与する意識・呼吸・循環を調節する「脳幹」、脳の表面にある「大脳皮質」という脳内の3つの部位が連携して起こった出来事に対して感情が調節される。「偏桃体」はいわゆる古い脳で、感情は危険や不安を感じたときに、生存が脅かされるかどうかというとっさの行動と判断を促すために、この状況が好ましいかどうかを評価する役目がある。感情に任せて行動する場合の脳の連携速度は秒速で、じっくりと考える時間を使わず、生命の危険を直感で回避するのに役立っている。映画『トップ・ガン・マーヴェリック』のマーベリックのセリフにある「Don’t think it, just do it!(考えるな、行動しろ!)」が、まさにこれだ。
しかし、現代社会ではそのような生命の危機にさらされる場面そのものが少なくなっている。人間の脳は進化の過程で霊長類のサルよりも発達してきたものの、現代の急速に発展変化した社会には追い付いていない。つまり社会状況としては少ないものの、生存優先のために秒速で感情が判断して行動をとっさに起こすような脳の機能は今も残っているのだ。内田舞医師によれば、一度感じた感情を自分自身が受け入れた後、論理的思考力によって再評価できるという。呼吸は意識的にコントールできるため、例えば深呼吸をして呼吸の速度を緩め、その身体感覚からまず感情を落ち着かせ、冷静に考え直して、その感情を理解し直すことが可能なのだ(感情の再評価)*3

コンサート当日、私はここまで泣くほどの感動の意味を整理も理解もできなかった。アンコールの拍手を繰り返す他の聴衆とともにコンサートでの感動の一体感に酔いしれていたが、指揮者が「(アンコールに応えたいが)電車が止まってしまうと罪を感じますので……」と冷静にコメントしたことで、私はようやく刻一刻と迫りくる台風の存在を思い出した。コンサート終了後は、自分の感情の解釈を一旦棚に上げて涙を拭き、子ども達を連れて台風が来る前に公共交通機関で無事に帰宅することを優先した。その時はこの言葉にできない強烈な感情を“生命の危険はない「好ましい感情」”と主観的にはラベリングしていたが、その深い意味については、翌日以降に落ち着いてゆっくり考えてから解釈した(私自身が感じたことや考えたことを言語化するのに時間がかかるタイプの人間で、人よりワンテンポ遅れる傾向にあるため、そうせざるを得なかったのだが)。これが内田舞医師の言う「再評価」に当たるかどうかはわからないが、私があれほど感動した理由は、ムソルグスキーのガルトマンに対する深い友情を作品から時代を超えて感じたことと、オーケストラによるハーモニーの音楽的芸術性に美しさを感じたからだと考えている。

 

 

知能:知能指数IQと心の知能指数EQとは何か

AI(Artificial Intelligence) の発展に伴って、IQ(Intelligence Quotient)よりもEQ(Emotional intelligence Quotient)が注目されるのは、自己や他者の感情を理解し、コントロールし、成功を収める能力(EQ)が、IQに比べて複雑だからではないだろうか。ちなみに、IQは、単に学習で覚えた知識や学力ではなく、様々な状況や環境に合理的に対処していくための土台となる能力と捉え、わかりやすく数値化したものを言う*4。AIのDeep Learningは膨大なデータから合理的な判断を導き出すので、私はIQの学習パターンに近いのではないかと想像している。AIの機械学習によってAIがチェス・囲碁・将棋で人間を圧勝するのは、人間ではインプットできないほどの膨大なデータから論理的思考と合理的判断を人間よりも速く極められるからではないかと、私は思う。

一方で、自分の感情や他者の感情を理解するのは、同じ状況でも違う感情が生じ得る上、感情をコントロールするために一度考えたことを改めたりする非合理的で、論理の飛躍も必要とするような複雑な過程が含まれている。このEQを脳科学で検証・証明した上で、情報工学上に実装するのは、私にはなかなか大変なことのように思える。AIでは、IQによる判断はできても、EQによる判断はそのプログラム、アルゴリズムの特性から至難の業ではないかと私は思う。このIQ、EQによる判断を、人は何気なく自然に、場合によっては瞬間的にやっている。

注目される非論理的思考:ノンリニア思考、デフォルト・モード・ネットワークによる創造性

では、EQによる判断思考のような非合理的で、論理の飛躍もあるような思考方法には、何があるのだろうか?

代表的なところでは、リニア思考に対するノンリニア思考がある。ノンリニア思考とは、直線を意味するリニアの逆で、非直線的で紆余曲折のある選択をするような思考のことだ。
リニア思考で私がイメージしやすい事例は、数学の証明問題だ。数式を使っているとはいえ、問題に答える過程は、論理的か合理的か、整合性が取れているかを意識的に考えている。一方ノンリニア思考で具体的に思いつくのは、脳の連想機能を無理なく使った対話によるブレイン・ストーミング(Brain Storming)、ノート術のマインド・マップ(Mind Map)、曼荼羅チャートだ。実はなごテツで話し合う際、最初にテーマに沿ってどこから思考を深掘りするか(切り込むか)、アイデアを募る時間があるが、それがブレイン・ストーミングに近いと私は感じている。他者との言語的な対話で刺激を受けて、次々とその場の人々がお互いに発想して思考を深めるのだ。マインド・マップは、イメージをそのまま絵やイラストで描いたり、言葉(主に単語などの短い表現)に直したりして、ノートを描きながら(書きながら)自分と対話して考えを進める*5。自由に描く(書く)マインド・マップとは違い、曼荼羅思考は規則的な曼荼羅の形(9マス)をチャートに沿って考える要素を埋めるように利用して思考を進める*6。マインド・マップも曼荼羅チャートを利用した思考も、中心に考えたいテーマを置き、連想した内容を放射状に列記して、関連性を次第に深めるようにアイデアをそれぞれ出していく。このノンリニア思考は、様々なアイデアを生んだり、それらのアイデアの関連性を見出したり、アイデアとアイデアを繋げたりして、新しいものを創造するのに威力を発揮する思考法である。

また、一見すると考えていないような状態で考えていることもあるように思う。それがデフォルト・モード・ネットワークだ。マインド・マップも曼荼羅思考も、アイデアを出した後の脳の地図や絵のようなノートを眺めながら優先順位や関連性を視覚的に見出し、情報整理の作業をすることができる。デフォルト・モード・ネットワークでは、無意識の中で突然ひらめきを得られることや、それまでまとまっていなかったようなことが突然まとまることがある。デフォルト・モード・ネットワークには脳疲労のデメリットもあるので、うまくオンとオフを切り替えることが必要になるが、情報整理の役割はメリットの一つだと思う*7。頭の一部しか使わず、一見すると考えていないような“ぼーっとした状態”をうまく利用することで、無意識に脳内情報を整理するのである。ただ情報整理の時、言語的に考えているか、非言語のイメージが固まるかは人によって違うのではないかと私は想像している。京都には「哲学の道」という名前の付いた散歩道があるが、“ぼんやり散歩をしながら考えをまとめる=デフォルト・モード・ネットワークを利用した情報整理ができる”場所ともいえる。ちなみに私は洗い物やお風呂掃除といった単純作業を伴う家事をぼんやりしていて「頭がお暇な時」、整理がつかなかった感情やイメージが言語化されやすく、忘れないようにひらめきをノートに記しておき、それを基に再構成して文章を一気に書き上げたりする。

科学的事実と主観的なラベリングの違い

最後に考えたいことは、科学的事実と主観的なラベリングの違いだ。そもそも科学的事実は、議論で決まるものではない。科学的事実とは、実験の立て方、サンプルの取り方、分析の仕方、結果の検証といった数々のデータの検証によるもので、これらが信頼できるかどうか判断するには専門知識が必要である。その科学的事実をめぐってもし議論するとすれば、その分野のエキスパートである科学者や学者達と対等な専門知識を持ち、その科学的事実を覆すような発見のあるデータを再検証し、科学論文で公に発表することが必要だと私は思う(そうした専門家達全員が倫理観を持ち、人類に有益であるような誠意ある検証をするかどうかは、また問題が別だが)。

一方で、主観的な意見交換は、ある分野のエキスパートでなくても十分議論できる。科学的事実には正解があっても、主観的な意見交換には正解も優劣もない。脳科学では「感情とは、偏桃体から生まれるものである」というのが科学的事実とされているが、人によって感情を主観的にどう捉えているかは違う。例えば、冷静な判断を邪魔するものと捉える人もいるだろうし、作品を創る上で欠かせない大事なものと捉える人もいるだろう。「考えること」を言語による意識的な思考のみとラベリングする人もいれば、非言語的な思考や感性・感受性を含める人、無意識の情報整理まで含める人もいるだろう。その捉え方の妥当性はその人の人生や生き方に適っているかどうかが重要で、他人と比較することよりも、他人の意見によって自分の意見をより良く再構築できるかどうかに価値があると私は思っている。いずれにせよ、私は「言葉を使わない(非言語)の思考」は確かにあると改めて思った。

(てんとうむし)

この記事は名古屋フィルハーモニー交響楽団の掲載許可を得ています。また、記事作成にあたり、いくつかのキーワードを元に資料を引用・参照しています。詳細が気になる方はリンク先や書籍を参考になさって下さい。

*1:脳神経外科疾患情報ページ:脳の構造、機能
https://square.umin.ac.jp/neuroinf/brain/004.html
https://square.umin.ac.jp/neuroinf/brain/005.html

*2:教育新聞社コラム:感性と感受性は同じでない 深い思考を経て意味を紡ぎ出す
http://www.kyousou.jp/pdf/column.pdf

*3:内田舞(小児精神科医):感情の再評価
https://gendai.media/articles/-/101007

*4:厚生労働省:e-ヘルスネット:知能指数/IQ
https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/dictionary/heart/yk-040.html

*5:トニー・ブザン/バリー・ブザン著、神田昌典翻訳『ザ・マインドマップ』(ダイヤモンド社、2005年)

*6:(株)HIRO ART DIRECTIONS: MandalArt:曼荼羅思考
https://www.mandal-art.com/

*7:佐藤舜:デフォルト・モード・ネットワーク
https://studyhacker.net/what-is-dmn