昔に比べればダイバーシティは良い方に向かっている、という見方がある。
「性同一性障害」が病気だという専門家もいなくなった、少なくとも趨勢はその方向だから、というのがその理由らしい。
確かにLGBTQなどが広く知られるようになったと言えなくはない。その意味では改善はしているのだろう。
しかし、その一方で昔なら「そんな奴もいるなぁ~」で済んでいたひとも現在では何か不審者扱いを受けることもままあるだろう。
たとえば、友人から聞いた話なのだが「大型書店問題」があるそうだ。どういうことかと言うと、彼は自宅から都心の大型書店に行くのを楽しみにしていた。だが、片道1時間半ほどはかかる。そこで、書店に着くとゆっくりと本を選びたいため書店のトイレを使うという。
書店側としては1回目は見過ごす。しかし、1か月後また彼が書店に到着し、トイレに向かう。それがもうだめらしい。店員・警備員がトイレの中まで同行してくるという。
彼はもちろん万引きなどしたことが無い。それでも監視カメラ・AIによる顔同定システムのせいで要注意の不審人物として、疑われるという。
彼は一回書店に着くと、5千~1万円ほど本を買ってゆくらしいのだが、それでもトイレを使うということで信用されないらしい。
このように言うと「いや、書店にとっても万引きは大きな問題なのだ」と書店を庇う人がいる。では客が自由に当たり前のことが出来ない、権利が(生理現象によりトイレに行くのが)保障されないのは大きな問題ではないのか?
確かに書店でトイレを使用しない人の方が多いだろう。しかし、彼のような人もいるのだ。それくらいの多様性も認めてもらえない。
ハイテク装置があるのなら「彼は何も万引きなどしていない」という事実を確認すればいいのにと思ってしまう。
結局彼はもうその書店には行くのは止めたそうである。
彼のような人でさえこの通りだ。まして心に深い悩みを抱える人の行動は、ハイテク機器・コンピュータの普及により、より誤解され不審がられてしまっているのではないか?
これが、ダイバーシティの名のもとに進行している、行われている事実だ。
昔に比べれば多様性の状況はよくなっていると本当に言えるのか。心に深い悩みを抱える人の苦痛・苦しみは少なくなっていると本当に言えるのか?
ちょっと前に映画『ジョーカー』を観る機会があった。ジョーカーになる主人公のことば「心の病を持つ者にとって最悪なのは、人から病気じゃないように振る舞うように求められることだ」「心を病んだ、打ち捨てられて孤独な男を、ゴミのように扱うと何を受け取ったか教えてやるよ!報いを受けるんだ!」は、どれだけの人の気持ちを代弁していることか。
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