なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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「self-illumination」は「自己の目覚め」か?--まだまだ岡倉天心

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茶の本』の回の終了後、「self-illumination」の訳語について情報とご指摘を頂きました。以下、その箇所の原文と訳文を紹介します。

Again the roji, the garden path which leads from the machiai to the tea-room, signified the first stage of meditation,—the passage into self-illumination.
<原文>

さらに待合から茶室に通ずる露地は黙想の第一階段、すなわち自己照明に達する通路を意味していた。
<岩波文庫 p54(村岡 博 訳)>

露地は、待合から茶室へと導く庭の小道だが、これも、瞑想の第一段階すなわち自己の目覚めへの移行を促すものだ。
<角川ソフィア文庫 p82(大久保 喬樹 訳)>

私は岩波文庫版で読んだのですが、「瞑想への第一段階」が「自己照明」ってどういうこと?と引っかかったまま結局よくわかりませんでした。
とは言え角川ソフィア文庫版の「自己の目覚め」は少し意訳し過ぎでは?とも思います。

そこで、何故「自己の目覚め」という訳になったのか考えてみました。

1. 「illumination」を「照明」ではなく「啓蒙」と取り、「自己啓蒙」とすると誤解を招きそうなので「目覚め」にした。
2. 岡倉天心は用語の定義をきちんとするより連想を利用するタイプだったので、「瞑想」の連想概念として「観想」を、「自己照明」の連想概念として「内なる光」を想定し、その光に気付くことを「目覚め」とした。

詳細な資料に当たる気力がないのですべてただの想像です。

そして、自分だったらどういう訳語を当てるのか考えてみました。「自己観照」だと松下幸之助みたいだし、「自灯明」では仏教に寄り過ぎる(そしてどちらも意味がズレる)、結局「内なる気付き」というところに落ち着きました。これはこれでキリスト教に寄っていますが。と言うか「自己の目覚め」より更に意訳です。

これぞという訳語を思い付いた方、コメント欄でもなごテツ代表メール宛でもいいので是非お寄せください。お待ちしています。

(福)