なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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権利も尊厳も自然によって冒されることはない

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なごテツの掲示板で「尊厳とは」というテーマについて話をしました。

 

私にとって「尊厳」とは、それが損なわれる状態になってから気づく、空気のように当たり前に、人が人であるために必要不可欠なもの。

 

人が人以外として扱われる状態、代替えのきく物のような扱いを受けたり、何かの道具として扱われたりするような状況が、尊厳が損なわれた状態といえそうです。

 

現代は、人が他者を道具にせずに幸福になれる世界の実現にむけて(地球上の全ての人の尊厳を守るため)、やっと考え始めた時代なのかもしれません。

 

掲示板で、他の方が「尊重されるべきものは『人間らしさ』や『その人らしさ』」と発言されていましたが、その表現はしっくりきます。

 

権利と尊厳についてですが、権利は、人間が作ったもの(制度や文化)の中での、個人の利権について使われることが多く、いつも他者の共感を呼ぶわけではないように思います。

 

一方、尊厳は、人間存在に関わる問題(人間らしさ・その人らしさが損なわれるような)が起きたときに使われることが多いため、他者も人として由々しき事態だ、と感じるのかもしれません。

 

ただ「権利」は言葉として幅があるため、「人間の根本的な権利=基本的人権」のように使うのであれば、ほぼ尊厳の言い換えにはなりそうです。

 

そして不思議なことに、権利も尊厳も、自然によって冒されることはなく、常に「人為的に」冒されるものなのだと思います(「人為的」と言うと、語弊があるかもしれませんね。意図しなくても人は間違うので笑)。

 

掲示板で他の方の意見を読みながら、私の考える「尊厳」は、人が作った「社会的な概念」以前に、自然が作った「人間存在そのもの」寄りであるのに気づきました。

 

人の存在は、存在そのものが尊いのに、人が作るものは間違いに満ちている。その間違いの大きさが存在を脅かしかねないものであったとき、多くの人が種として、不快や怒りを覚えるといったようなものなのでは、と思いました。曹洞宗的な人間観は、これに近いのでしょうか?

(MK)