いつでも嘘は罪なのか?
この映画ではさまざまな嘘が主人公をかくまってくれます。
(このあと映画のネタバレを含みますのでご了承下さい)
映画のあとで、嘘の問題を考えたカントの話を思い出しました。
哲学者のカントは、嘘は罪であると主張しました。
彼は倫理的には、人々は「嘘をついてはいけない」というルールを無条件に守るべきだとしています。
そのルールは定言命法なのです。
一般的な倫理学の原則は「〇〇ならば、〇〇せよ」という条件付きの命令、仮言命法であるのに対して、カントの定言命法は「〇〇ならば」という条件がありません。
そして、「嘘をついてはいけない」にも「〇〇ならば」はありません。
友人をかくまうための嘘
カントは例として、殺人鬼に追われた友人が自分の家に隠してもらおうと逃げ込んできた場合をあげています。この時、殺人鬼に友人の居場所を尋ねられたとしても、「嘘をついてはいけない」としています。
どんな結果が予想されるかとは無関係に、人は「嘘をついてはいけない」のです。
定言命法には、一切の理由はありませんが、カントは一方で、嘘をつくべきでない理由も挙げています
その理由の一つは「嘘は法の遵守の精神や言明一般の信用を失わせてしまうため、人間性一般に不正をくわえることになるため、避けなくてはいけない」というものでした。
嘘は、嘘をつかれた人に対する不誠実というよりも、人間性一般に対する不誠実となると考えられていたようです。
人情劇ドラマに嘘はつきもの
映画「希望のかなた」はフィンランドの巨匠、アキ・カウリスマキ監督の一風変わったコメディです。
主人公のシリア難民のカーリドは苦難の末、偶然フィンランドにたどり着きます。期待と不安の中で難民申請をしますが却下され、本国へ送還されることに。連行直前に逃亡した彼を、さまざまな人が助けてくれます。
そして彼を助けてくれる人々は、そのために様々な嘘をつきます。
貨物船の船員は、無断で乗り込んだカーリドを「見て見ぬフリ」してくれます。
難民収容施設の女性職員は、裏口への扉の鍵を開けて彼を逃がし、連行しに来た警官に嘘をついて時間を稼いでくれました。
国際トラック輸送のドライバーは、カーリドの妹を国外からトラックにこっそり載せて運んでくれました。荷下ろし時の検査でも検査官に嘘をついて彼女を隠してくれました。
カーリドを助けてくれたのは、たくさんの嘘でした。
それでも嘘は罪なのか?
人情劇ドラマでも描かれる様に、「嘘は常に悪い」とは考えないのが私たちの常識的感覚だと思われます。
それに比べるとカントの嘘に対する態度は非常識にも感じます。
そして一見非常識に見える論点を考えることで常識がゆさぶられ、あいまいになっていくトコロが哲学の魅力のひとつだと思います。
カウリスマキ監督の映画も、いつも独特のオフビートなユーモアと、レトロで哀愁の音楽や美術のマッチングで、世界をゆさぶってあいまいにしてくれるところが魅力です。
(草)