なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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「反出生主義」っていいかも……

 『周りは皆楽しそうにやってるのに、自分だけ詰まらない辛い惨めな毎日を過ごしている。そんなこと大声で言って「だっせーやつ」「かわいそうなお人」って思われるのもヤダなー。ん?』
 ——人間は元来惨めな生き物で、最初から生まれてこないのが一番幸せ。一人の人間でも悲惨な生を送るくらいなら、そんな可能性があるなら寧ろ全人類が生まれてこないほうが良い、いやそうするべきだ。
 そうして初めて地球から不幸を根絶できるのだ。一人の人間でも不幸であるならば、そんな生き物に生存権などない!人類などが存続する以上、どうしても不幸な人間が生まれてしまう。その呪われた運命を断つには人類が存続をやめれば良い。誰一人として産んではならぬ。——
 『これこそが最も理にかなった、正しすぎる考えだ。わたしのつらい毎日は「どーすれば皆みたいに楽しく生きられるの?教えて!」ではなく、この一人も取り残さない究極の安寧思想に殉じる為にあるんだ。わたしの辛さに、苦しい毎日に新しい意味が、究極の真理が与えられた!』
 『そう、これを《反出生主義》って言うんだー。』

 こんな具合なんだろうか。この思想に共鳴するひとは。確かに歴史上悲惨な最期を遂げた人間の事例は枚挙にいとまがないだろう。
 でも彼らは「生まれてこないほうが良かった」と思っていただろうか。そして反出生主義に共感するひとに聞きたい。生まれて今まで、自分に温かい言葉をかけてもらったこと、嬉しかったひとの気持ち、忘れられない愛情の記憶はないだろうか。
 『あるにはあるけど、自分の生まれて来たくはなかった気持ちを上回るほどの意味はなかった。なくても構わなかった』と言うのだろうか。人からの親切、好意、愛情、というのは本当はありがたい、有り難い事なんだ。それを君が生まれこなければ、まったく無かった事になってしまう。それでも君は構わないと言う。では君に気持ちを示してくれた人のその気持ちはどうなってしまうのか、どこへ行ってしまうのか。君には何の資格があって君に関わってくれた人の気持ちを切り捨てる、踏みにじることができるというのか。
 『自分はそれ以上の嫌な目にあっているんだから、しょうがないだろ』と君は言う。しかしそれは君の事情だ。君に好意を、愛情を示してくれた他人の気持ちをないがしろにできる程、君は特別な選ばれた人間なのだろうか。他人の気持ちはどこへ行ってしまうのか。
 その他人の君に対する気持ちは実は奇蹟だったんだ。ありふれたものでもない、あって当たり前のものでもない、尊いものだったんだ。そして人生ではそれは、大量の土砂の中からやっとのことで一粒の砂金を見つけること、そうしてそれを味わうことができれば人間の幸福なんだ。

 ——おまえたちがかつて「一度」を二度欲したことがあるなら、かつて「おまえはわたしの気に入った。幸福よ、刹那よ。瞬間よ」と言ったことがあるなら、それならおまえたちはいっさいのことの回帰を欲したのだ。
 ——おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ。
ツァラトゥストラはかく語りきbyフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

 哲学のテクストを引用したついでに菊池寛の『三浦右衛門の最後』の一読をお薦めする。惨殺された右衛門、彼はそれでも「生まれて来たくは無かった」とは言わないだろう。
 またフィルコリンズがボーカルを務めるジェネシスのMama。生まれてくることができなかった赤ちゃんの「生まれたかった」という叫びの歌を聞いたことは?

 『それら芸術といえどもフィクションじゃないか。嘘だよ。そんなの』という問いには、芸術はフィクションだけど人間の真実を描いたものだ、と言っておこう。

 ノンフィクションの事実として杉原千畝によって命を助けられたユダヤ人の子孫が戦後、感謝の念を伝えに日本を訪れている。それでも人間は生まれてこないほうが幸福だと言うだろうか。もし、そのユダヤ人をガス室に送っていればこの世に生を受けることのなかった子孫は生まれて来れたことに感謝しているのだ。

 『法律というのは可能性については罰しない。反出生主義によってもし、一人も生まれることができなくなった世界があっても、それはあくまでも生まれて来たいと願う命を消してしまった可能性はあるが、具体的には誰にも、特定された個人(赤ちゃん)に対し罪を負うっていない。だって生まれていないんだから、架空の人間(赤ちゃん)に対して賠償する必要はない。だって生まれていないんだから、誰にも罪は行っていない。あくまでも生まれて来たいと願う生命の可能性を消しただけだ。殺人ですらない。一人でも人の子を産んでしまえば不幸になる人間が生じる可能性がある。それを封じるだけだ。』
 しかし、生まれて来たくはない命の可能性を消し去るだけだと言うが、生まれて来たかった筈の命の可能性〈幸福な赤ちゃん〉をも一緒に消してしまったのではないのか。命の元の元を消し去ると言って、何故前者の命だけを選別的に消し去ることが可能だったと考えられるのか。
 後者で消去したのは単なる生まれたかった命になる可能性〈~かもしれない〉だけだというのなら、前者の消去の根拠となる、人間が生まれる以上生れて来たくはない命が、不幸になる命が生まれてしまう可能性がある、と言ってもそれも可能性〈~かもしれない〉に過ぎない。確定した事実ではない。
 もう一度言うが、あなたたちの行為を正当化してくれる、あくまでも可能性〈不幸な赤ちゃんになる〉があっただけだ。それをあたかも確定した事実かのように言えるのなら、あなたたちが単なる可能性だから消去止む無しとした可能性〈幸福な赤ちゃんとなる〉も確定した事実〈必ず生まれる〉として消してはいけないのではないか。
 逆に後者の可能性は「かもしれない」と解釈するのなら前者の可能性も「かもしれない」にとどめるべきだ。いずれにせよ反出生主義の論理は矛盾する。
 前者の可能性は絶対で後者のそれは架空に過ぎない、と何故言えるのか。前者の絶対は過去の経験則に過ぎない。だから、すべての赤ちゃんは皆、生きているのが良い、と思うようになるかもしれないではないか。まだあなた方の言う確定した事実〈不幸な赤ちゃんが生まれること〉もない。
 成長して不幸になる前に消去されるのなら、もし不幸が犯罪と呼べるほどの呪わしい出来事だとしても、そうなる前に消されてしまうのでは、犯してもいない罪で消されることになるも同然ではないか。成長して不幸になったと確定した時点で初めて、その命を生まれて来なかったことにすべきだが、そんなことは不可能だ。

 主観的にあなたが不幸だと言うのなら、それは認めよう。だが、だからといって生まれてくる新しい命も、あなたと同じだとどうして確定できるのか。かつて、あなたのものだった地球は、この世界は、悲しいかもしれないが、もうあなたのものではない。次に生まれてくる命のものだ。主役は譲らざるを得ない。

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