海は広いなおおきいなー(*‘∀‘) ※写真は本人です。
と歌いたくなるほど広かったです、砂丘。
海じゃないけど…
先日、生まれて初めて鳥取砂丘に行きました。
人生一度は鳥取砂丘!
空と海と砂と風。
時々雲間からのぞく太陽。
無邪気にはしゃぐ人間たち。
あたりまえに在るものばかりでありながら、ここでは非日常的な景色になるのが面白かったです。
また、風が吹くと砂の上にさらさらと文様(風紋)ができるので、それがどんどんと移り変わっていくのを見ているだけでも飽きませんでした。
さらさらさらさら…
ああ、私たちも砂粒のようなものかもしれない…
などとボンヤリと感じていたら、石川啄木の短歌集『一握の砂』を思い出しました。
『 頬につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず 』
この『一握の砂』の解釈は、
…自分の作った短歌を『一握の砂』にたとえ、苦しみながら生み出した作品を世に問うた。
…全ての海の砂からしたら、ひと握りの砂はごくわずか。一人の人間の存在の小ささや一生の短さ、自分の想いや作品を一握りの砂にたとえた。
などがあるそうですが、どちらも苦しそうですねぇ…
一方、私が中学生の時に教科書で知って以来好きな石川啄木の短歌がありまして、
『 不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心 』
というのですが、この若さと夢、清々しさにあふれた歌と、上記の『一握の砂』を対比させると、なんだかせつない…
ちなみに、ぶっちゃけ私の年齢五十五歳なのですが、
『 鳥取の 砂丘の上に 寝ころびて 空に吸はれし 五十五の心 』
と詠いたくなりました。
現実の生活がどんなに苦しくても創作を続けた啄木に敬意をはらいつつ、人生百年時代なら、五十五の心も十五と大差ない!若く清々しい気持ちでいたい!
と思います。 …思いたい。 …思うことにしよう。
しかし、翌日・翌々日しっかり太ももが痛いっていうところに『年齢のリアル』を感じてもいます…( ;∀;)
(ikue)