なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

● なごテツからのお知らせ ● ←ここをクリック!


昆虫採集は悪なのか

4月8日の「信頼される人とは」についてブログを書こうとしていたら、夫がこんな提案をしてきた。「昆虫採集について、なごテツのみんながどんな意見を持っているのか投稿記事にして訊いてくれないか?」と。

夫が言う昆虫採集というのは、主に蝶のことで、屋外に飛ぶ蝶を生け捕りにして自分の指で圧迫死させ、ピン(針)で昆虫標本にし、その後観察するということを指す。図鑑や映像ではなく、実際に生き物を捕まえて自分で殺す、観察する。そういう過程を経るからこそ広く深く理解できることがある、というのが夫の主張だ。
医学部の解剖学実習のようなものかな、と私は当初想像したが、どうやらそうではないらしい。

まず、昆虫を捕まえるためには、その昆虫が育つ植生(植物)がわからないと始まらない。その植物は、どんな地域で、どんな気象条件・季節に芽を出し、花を咲かせるか。
虫はその植物のどのタイミングで卵を産み、その植物のどんな成長条件の時に孵化し、幼虫の時期を過ごし、さなぎになり、さなぎから羽化していくか。その特定の植物がなくなれば、虫は生まれない。育たないからだ。

生け捕りにした蝶を絞め、ピンで留めて標本にし、あらゆる角度で観察すると、蝶の羽の色が変わることがわかる。蝶の羽の表面は鱗粉でできており、当たる光の角度によって色が決まる。どの角度で鱗粉を見るかによって光の当たり方が変わり、目に入ってくる色が変わるからこそ、見える色が変わる。これは図鑑の写真を見ているだけではわからない。角度を変えて見たら、黒だと思っていた蝶の羽は、実は深い緑色だった、など。しかも一匹一匹、同じ種類でも微妙に模様が違う。蝶同士であれば、飛んでいるその瞬間にその模様の違いを認識できるのだというから驚かされる。鳥類に狙われないように目で睨みつけるような脅し模様を羽に持つものもいれば、けばけばしい色で羽に毒を演出する模様、特定の植物にそっくりの擬態模様を羽に持つものもいる。私には、どういう進化のselectionがなされているのか不思議に思えてくる。

また、蝶の場合は寄生虫や鳥に幼虫の段階で狙われる可能性がとても高い。私にとって衝撃的だったのは、自然界ではアゲハチョウの羽化率(卵から幼虫になり、飛ぶ蝶になる確率)は0.6%という奇跡。産み落とされた卵のほとんどである99.4%は、成虫の蝶にはなれないのだ(昆虫採集の業界ではこの確率は常識的なようです)*1
それだけの生存競争を生き抜いてきた蝶には、どんな特徴があるのか、考えさせられてしまう。

そして、蝶の育つ自然環境のバランスさえも考えさせられる。寄生蜂や鳥が増えるような環境、特定の植物がなくなるような環境では、その蝶は生まれないし、育たない。特定の蝶を観察し続けていると、身近な自然環境の変化さえもわかるのである。そうしたことを理解するにつけ、循環するような自然に対する畏敬の念や、生命に対する優しさとはどういうものなのか考えざるを得なくなる。

そうしたことがわかるのも、採集した蝶を標本にしたりするからこそだと夫は考えている。自宅で蝶を卵から成虫まで育ててみたいという発想さえも、その昆虫採集から生まれるというのだ。

ところが、昆虫採集というと「命をむやみに奪い、かわいそう」といった意見や、「自然保護のために、昆虫採集には反対」といった意見を投げつけられた経験が夫には割とあるらしい。
それほどまで蝶も虫も好きではない私としても、昆虫採集について夫とよくよく話してみると奥の深い話に思ええてくる。観察角度の違いによる蝶の羽の色の変わり具合や、同じ種類の蝶であっても羽化の季節によっても蝶自身の大きさや模様の違いを見せられると、確かに驚かされる。厳しい自然環境を生き抜く進化の知恵がそこには凝縮されているのだから。

子どもへの家庭教育上、我が家ではそんな虫教育を夫が取り入れており、「自分で捕まえて、自分で殺す」からこそ逆に命の大切さを身近に学べるのではないかと考えている。今や子どもに昆虫採集させる家庭は、夏休みの自由研究であっても、少なくとも子どもが通う学校の中ではかなりの少数派だ。
実際にはどうなのだろう?昆虫採集に対して、どんな考え方があるのだろうか?
昆虫はびっくりするぐらいの数の卵が生まれ、わずかな数しか成虫になれないにも関わらず、目にする成虫の昆虫はとても多い。その中の数匹を採集し、殺してはしまうけれども、その貴重な数匹を観察し、そこから生命の神秘や自然環境を理解することは、それほど悪なのだろうか?

(てんとうむし)