美味しいものと美味しいものを混ぜ合わせてみても、必ずしも美味しものにはならない。
ピザトーストに桃やこはだを置いてみる。恐らく美味しくない。ガトーショコラに納豆を散りばめてみる。これも美味しくはない。ハーゲンダッツに南高梅をのっけてみる。嗚呼、美味しくない。
何故だろう?
「美味しい」と僕らが感じる時、往々にしてその食物は体が欲している。タンパク質であったりビタミンを効率よく体にチャージする仕組み。それが、「美味しい」の正体だ。
では、何故シュークリームに鰻を挟み込むと「美味しくない」のか?栄養的にはシュークリームの糖質と鰻のタンパク質・ビタミンは相殺しあって無栄養になる、などということは無い筈である。
なのに何故?
恐らく味は、腐っていたりとか体に害のあるものを探知して食べないようにする仕組みでもある。シュークリームの消費期限がかなり過ぎていて、口にすると思わず吐き出すようなものも、鰻のかば焼きが一緒に口に入ると、その複雑な味では「腐ってるのか? それともこれが令和の新・美味というものなのか?」とよく分からない。食べていいものなのかどうかが判断しかねる。それは茶碗蒸しの中のバナナの場合も同じである。
珍味なのかただ腐ってるだけなのか? 的確に判断する為に、たとえ作ったばかりの美味しいケーキと美味しい柴漬けは普段から一緒には食べないことにより、リスクを回避する。それが「美味しいものと美味しいものを合わせても必ずしも美味しいものにはならない」ということなのだろう。
* * * * * * *
中華屋さんから漂ってくる美味しそうな匂い。生姜焼き定食の匂いだろうか。美味しそうな匂い、良い匂いだ。
良い匂いだが、香水にはならないだろう? 何故?
食べ物でも、チョコ、オレンジ、レモンの香りの香水はあるのに。同じ食べ物で、良い匂いなのに決して焼肉定食の香りの香水にはお目にかからない。
* * * * * * *
うまい話にはウラがある。「おいしい」も自分の懸けたコスト以上のリウォードやリターンを得る場合に使う言葉だ。だけど、「うまい」と「おいしい」とは微妙に違う。「おいしい」には清潔感、真っ白なシャツ感がある。洗練された丁寧な静謐な空間。それが「うまい」には無い「おいしい」のニュアンスだと思う。
それは1982年、糸井重里のコピー『おいしい生活』が登場してから感じられる微妙なニュアンスだ。
(i3)