なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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本質シリーズ第五弾:コーヒーの本質

本質シリーズ第四弾から時間がたってしまいましたが、私も参入して第五弾を書くことにしました。

先日私はリアル哲学対話に初参加しました。なごテツのZoomによる哲学対話では、自宅で自分好みのコーヒーを淹れて自分専用のカップ&ソーサーに注ぎ、それをお供にかなりリラックスして参加していることが多いです。先日参加したリアル哲学対話では、繁華街にあるカフェで美味しいコーヒーを素敵なカップ&ソーサーに注いで頂き、いつもとは違う雰囲気を味わってきました。今回は、そこで味わったコーヒーと自宅で飲むコーヒーの香りの違いが発端となって、普段コーヒー豆を購入しているお店のマスターの一言から私が考えたコーヒーの本質について考えてみたいと思います。

リアル哲学対話で私が注文したのは、ヘーゼルナッツ・コーヒーでした。私はそのお店のHPを事前チェックし、おすすめコーヒーを手早く注文したのです。しばらくすると店員さんがNARUMIのカップ&ソーサーに注いで運んできてくれ、ちょっと感激しました。私の向かいに座っていた方には、Noritakeの有名なカップ&ソーサーが置いてあります。HPにあるカフェの店内写真には、様々なカップ&ソーサーが陳列されており、どのカップが私の前に置かれるのかは楽しみの一つでした。参加者の人たちの目の前に並んだ様々な素敵なカップを身近に見るだけでも、心が潤います。

諸事情により途中参加したため、緊張感を解きほぐすために、コーヒーを一口飲みました。すると、信じられないくらい甘い香りがしたのです。砂糖は入っていないのに、とても甘く感じる。それを私は「美味しい」と思い、2杯目も同じヘーゼルナッツ・コーヒーを注文しただけでなく、他の参加者の方にも営業職のように勧め、何人かが2杯目でヘーゼルナッツ・コーヒーを注文してしまうほどでした。

後日、私は普段コーヒー豆を購入するコーヒー豆焙煎店のマスターに、このヘーゼルナッツ・コーヒーの話をしました。私が購入しているコーヒーはすべてシングル・オリジンで、パプアニューギニア(シグリ農園)とルワンダ(アバトゥーンジ農園)が主で、その豆の果実のちょっとした香りの違いを感じられるように種類を選んでいます。ただ、ヘーゼルナッツ・コーヒーほどの強烈な甘い香りを感じるコーヒーは一度も経験がなく、マスターにあのコーヒーは何だったのだろうと思って何気なく質問しました。すると、マスターは「ヘーゼルナッツ・コーヒーなんて、安いいい加減な豆に香りを後から付けただけですよ」と、半ば「そんなコーヒーは邪道だ」といわんばかりの雰囲気で答えました。

私にとって、この事実は衝撃的でした。コーヒーを飲めない夫には「豆の味なんて本当はわかっていないんじゃないのか?」とまで言われ、ちょっと傷ついている自分もいました。

では、私はあのヘーゼルナッツ・コーヒーをどうして美味しく感じたのでしょうか?
その役割の多くを「味覚」ではなく、「嗅覚」が担っていたことに気づきました。新型コロナウィルス感染者の中には、回復後も後遺症に苦しむ方がいて、その中に「嗅覚障害」があります。彼らは香りがわからなくて食事の美味しさを感じられず、苦しんでいました。飲食を楽しむには、もちろん料理の味付けも盛り付けといった見た目も大事ですが、意外と見落としがちなのが、食べる直前に感じる香りです。この香りが、「美味しい」と感じることにかなり影響を与えていることを今回改めて感じました。

この香りの違いについて、マスターが「邪道」と感じた理由もわかります。「美味しいコーヒーは、バリスタの技術よりも、豆そのもののポテンシャルが9割」だと普段から話す“豆マスター”は、コーヒー豆そのものに対するこだわりがそもそも強い。豆本来の味を最大限活かすために、生豆の仕入れ、焙煎、鮮度管理にかなりのこだわりを持つ職人のようなマスターの立場を考えてみると、豆本来の香りを消すほどの強烈な香りづけを後からする方法は、自分の仕事を台無しにされるような悲しさがあったのかもしれません。

では次に、カフェの立場で考えてみましょう。お客さんに「またこのカフェに来たい」と思ってもらうには、店内の雰囲気やコーヒーをサーブするカップ&ソーサー以外にも、なにかひと工夫が必要です。調べてみると、紅茶で一定の地位を確立しているフレーバー・ティーがあるように、ヘーゼルナッツ・コーヒーはコーヒーの中で最近人気が出てきたフレーバー・コーヒーの一つでした。繁華街でのお店の経営立場を考えたとき、提供するサービス・センスの良さや流行に敏感なことも必要なのでしょう。実際、私はじっくりコーヒーを味わいながらも、かなり哲学対話そのものに気を取られていました。この目が覚めるような甘い香りの刺激があって、コーヒーも哲学対話も両方バランスよく味わえました。店内に流れる懐かしい洋楽も含めて、心地よさを感じていたのです。

こうして考えると、美味しいコーヒーの本質は、好みだけでなく、立場や状況によって変わるのかもしれません。私は普段の生活時間で豆を挽く心の余裕はなく、マスターこだわりの機械で豆を挽いてもらって少量ずつ購入し、手持ちの道具を使って、自分で淹れます。もちろん私にはバリスタのような技術はありません。それでも大好きなブルーマウンテン・コーヒーをお店で頼んで飲むのと比べると、はるかにコスト・パフォーマンスが良く、日常での貴重な贅沢時間になり得るのです。

結局、私は夫と「 “その時美味しいと感じる”。それがすべてじゃないの?」と話し、笑い合いました。

コーヒー好きなあなたにとって、その本質はなんでしょうか?

(てんとうむし)