先回の哲カフェテーマは「教養とは」だった筈です。筈というのは諸事情により哲カフェ中止となったからです。このままこのテーマは日の目を見ないのか。少しだけ気になりました。
教養とは何でしょうか。興味深い知識の集合。でも密林の中、文明とは隔絶した状況でも独力で生き延びるために必要な知識のことは教養とは言いません。無人島でひとり生き残るサバイバル能力も同様です。
核戦争後まったく現代文明が知識とともに破壊されつくした中、ゼロから科学文明を築いていくための技術——そんな本が少し前に話題に(?)なりましたが——も偉大ではありますが教養の枠から外れている気がします。
冷蔵庫にあった有り合わせの材料から、美味しい料理を作るような知識(腕前と呼ぶのでしょうか)も、大けがをした時の緊急処置に関する知識も教養とは呼ばれません。
ひとが生きていくうえで欠かせないお金のマネージメントの知識、そして公園の木々の名前、そこにいたカブトムシの正式名称も、残念ながら教養とは違うようです。
教養のイメージは、ひとり薄暗い書斎部屋でショスタコーヴィッチをレコード盤で聴きながら、クリスタルマウンテンのブラックコーヒーでも啜っている。手にしている本は哲学書——ホセ・オルテガ・イ・ガセットの大衆の反逆とか——或いはシェイクスピア。教養というと僕にはそんなステレオタイプがありますが、余りにも悪意に満ちた偏見でしょうか。
それでも教養と言えば、古典文学・哲学・歴史・クラシック音楽・絵画・映画(いわゆる名画と言われるやつですね)、もっと悪意(?)を込めて言うと、更に浄瑠璃・能楽・狂言などの伝統芸能に造詣の深いひとが身に付けるものなのではないでしょうか。
理系の知識は広義の教養には入るでしょう。しかし熱力学の第二法則などは、あまり教養人の間で話題になるとも思えません。
やはり文系の知識。なかでも読書によって得られるものが教養の王道でしょう。何故でしょう。
冒頭で述べた様々な知識——実学——にたいして古典文学なぞは差し詰め虚学でしょうか。でも毎日の生活で役立つことはありませんが、長い人生においてきっと文学の素養の有無は影響してくるのではないか。
「ことば」への偏愛、信頼、尊重、興味、こういったものが教養の中心をかたち作っています。そしてその「ことば」をつくっているのは誰か。国語辞典をつくる学者は、認定はするが「ことば」をつくっているのは市井のひとびと。
だから教養の持ち主は、人びとへの——人間への——友愛の精神に貫かれていると言っても良いのではないか。他人への(自分も含め)興味、やさしさに溢れているひとを教養人と呼ぶ。そんな気がします。
教養のあるひとは決して学歴が高いとかではなく、他人に対して慈愛にみちたまなざしを向けている人格者。
そして怒れるときは、その感情を押し隠すことのない、社会悪に対して理不尽にたいして。
昨今、教養の地位は下がり続けている。国も教育の現場で、教養などは要らないと言わんばかりの指導をしている。とにかくお金儲けになる話ばかりが推奨される。
その儲けたお金は決して教養には回らない。そのもたらされたお金を消費してもらうよう経済、経済、経済の観点からつくられたまがい物が跋扈する。
ひと昔、或いはもっと以前には教養は無くても、あるように見せたいという空気があった。
翻って現在、世界文学全集、世界大百科事典の凋落。
おまけに国は教養のある人を歓迎しない。お上には逆らわず経済だけ回してくれていれば、その存在を保証する、というように。
教養なき国の、世界で占める地位への影響は十年後、二十年後に必ず現れる。と言うよりは、その結果が今の日本を造っている。
教養が立身出世と互いに手を組んで歩んできた時期も、終焉を迎えたのはいつ頃だったろうか。元々教養というのは実益を目的としたものではないので、むしろ立身出世に箔をつけるという意味でのことだが。
とすると今の立身出世には教養を身に付ける余裕もなくなってしまったという事で、底が見えると言える。或いは民衆が教養に感服することがない為、立身出世族が無駄なコストを懸けなくなったという事か。
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