なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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「いてもいいかな」と「いなくてもいいかな」

年金を受け取れる歳になってから、コロナの関係で直接人と会うことが憚られる状態が続いていました。ようやく自由に行動できるようになり、高校同期のメーリングリストでは遠地の同期と久しぶりに会ったというような便りが届きます。同期といっても一緒に行動するのは同じメンバーだけで、友達グループの近況報告のようなものです。大学時代の友人とは違って、高校時代の友人と会っている時の表情は自然だと身内に言われたことを思い出します。社会性が生まれてから関係ができた人と思春期を共に過ごした人の違いがあるのでしょう。

高校という大きな集団の中に、友人という小さな集まりができる。お互いがはっきりと言わなくても、つれ合うことが増えてきます。そこには一種の場があります。後から加わる人も、その場の雰囲気とそこにいる人の様子から「ここにいてもいいかな」と感じ、仲間が増えていく。新たに加わる人が意識しているかどうかは別にして、人同士の結びつきの強さだったり、話し方だったり、その場に惹かれる特徴があるのでしょう。そこでの時間は生産的でないこともあるかもしれないが、また、会いたいと思わせます。高校時代の友人と久しぶりに会っても、その関係性に変わりが無いことを期待し、その通りであるのは嬉しいことです。

このように、私を受け入れてくれる居心地の良い場所であっても、時間が経つと、「もう良いかな」と感じる場もあります。

一緒にいる人はこれまで通りに接してくれているのに、なぜこんな気持ちになるのだろう。自分の中か、その場の空気が微妙に変化していて、これまでに無かった違和感がある。そして、私は私に「いなくてもいいかな」という言葉を語りかける。なぜ、こんなに大切に思っていた場からそのような感情が生まれるのでしょう。

実世界では、初めからお近づきになりたくない場所もあるでしょう。ご近所づきあいという言葉は都市では死語に近いかもしれません。昔のご近所は、自分の気持ちに関係なく、簡単に逃れることができない場所でした。お節介かもしれないが、相手を思いやる気持ちなどプラスの心を生むものがあったのは確かです。しかし家族構成が変わり、社会生活をリスクの面から考え始める人が増えてきている中で、この関係は希薄になってきています。

ご近所付き合いの代わりに、今はプラットフォームサービス上での関係が生まれました。そこは直接対面しないため、個人の情報に抜けた部分があります。この世界では、プラスにしろマイナスにしろ、色々なやり取りの影響が増幅することがあります。結びつきが強いネットワークからは簡単に抜けられないため、その問題が大きくなるでしょう。生活の移り変わりに合わせてこれまでにないような場が設けられるようになり、その場所らしい居心地の良さが形作られる。

たとえば哲学カフェに参加すると、その場を楽しむだけではなく、新しい良い環境と、そのルールを作り上げていく過程に自分が参加していると感じることがあります。これまでは直接お目にかかって話をしていましたが、オンライン哲学カフェに変わったことで、参加者の広がりといった面だけではなく、進め方やマナーなど、今まで通りではうまくいかないところもあります。そこで、場を提供する側の立場として、「いてもいいかな」と「いなくてもいいかな」という気持を生む背景について理解を深め、参加する方と一緒に新しい作法を作り上げていけたらと思うのです。

なごテツでは6月11日(土)に「いてもいいかな」と「いなくてもいいかな」をテーマにネットでの哲学カフェを行います。興味のある方は、お申込みをお待ちしています。

(寺)