なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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無意識を変える

今回の哲カフェ「無意識を変える」では、珍しく自分の発言した内容について拘っていた。以下はその軌跡である。

 

リード文では『無意識は、自分の行動の全てに及ぶ“王様”のようなもの』と書かれていた。しかし、僕は逆のような気がした。無意識は“王様”である意識の奴隷ではなかろうか。この奴隷(無意識)は王様(意識)のことをよく知っている。けれども王様(意識)は奴隷(無意識)のことなど知らない。だから無意識は意識に昇らないのである。一方、無意識は主体である意識のことをよく知っていて、無意識なりに意識の利益を常に考えてくれる。それは無意識が一方的に考えた幸福(利益)なのではあるが。

 

フランツ・カフカアフォリズムで『善は悪のことを知らないが、悪は善のことを知っている』というのがある。それで言うと無意識は「悪」になってしまうのだろうか。「無意識」というと、何故か不気味な感じを覚えるのはそのせいでもあるのか。自分(無意識)でありながら、自分(意識)ではコントロールはできない。

 

こんな夢を見たい、と強く念じてベッドに就いても、翌朝その通りの夢を見ることが出来たという試しがない。やはり無意識は意識のコントロールなど受けないのだ。でもそれは、そんな一見希望通りの夢を見てしまったら却って主体(意識)がピンチに陥るかもしれず、無意識はそれを防いでくれているのかもしれない。例えば、宝くじで何十億も当たった夢を見て、働くのが馬鹿々々しいという強い感情を、夢から醒めても忘れなかったりするのを防いでいてくれている、とか。

 

人は自分の夢には興味を持つものだ。だから夢を司っている無意識にも興味津々だ。それが20世紀にアンドレ・ブルトンが起こしたシュル・レアリスムの成功の理由ではないのだろうか。そして今回の哲カフェのテーマとなった所以でもある。

 

それでは、いつか奴隷が王様に反旗を翻し、主体を乗っ取ってしまうという事はあるのだろうか?そんな事が自分の身に起こるとしたら、恐怖でもあり面白そうでもある。怖いもの見たさという奴である。

 

少なくとも僕らは自分という人間は、これこれしかじかのものであると認識しているのだが、そこで無意識がそれとは違う自分を見せてくれたら、面白そうだという穏当な怖いもの見たさも我々は持っている。それも無意識について知りたい、と僕らが思う事由であろう。

 

唐突だが、風邪の引き初めにはカレーが食べたくなる事があるという。体を温かくしてくれ、肝機能をアップし、免疫細胞を活性化してくれる、という理由らしい。無意識が食欲を操縦している。もっと胃腸が弱っていれば、無意識はうどんをオーダーするだろう。意識はピッツァを食べようとしていても。

 

ここで疑問なのだが、無意識が淡々と的確に物事を進めてくれるのに、なぜ意識というものが出しゃばって体をコントロールしようとするのか。無理を通そうとする意識のメリットはどこにあるのか。

 

敢えて別の見方をすれば、無意識が戦術家であり、意識は戦略家なのだろう。戦略家が必要となるほど複雑な生を、生きることとなった生物として人間は君臨する。だが、その結果人類は繁栄できたのか。そうとも言えるし、違うとも言える。ロシアによるウクライナ侵攻。第3次世界大戦、核戦争の危機。

 

生命といえども物質がただ複雑になったもので、質的に物質と差はないものとすると、ただ物質に法則が淡々と作用しているというだけになる。原因があり、結果が生じる。その結果がまた原因となり、新たな結果を生む。この繰り返し。それは僕ら人間の頭脳にも適用できるとするなら、なぜ意識が生まれたのかが分からない。人間の頭脳による決定は、実は成るべくして成ったもの。物理法則によりただ生じた「仮の」指令。そこにわざわざ意識を生成させ、自由意志により指令を決定したという誤解をするメリットは何か?意識は、つまり自由意志は幻想ではなかったのか。意志は後追いで体の動きを承認しているだけなのに、あたかも自分の命令で体を動かしていると思っている。畢竟自由意志により動いていると。

 

補足だが、生理学者ベンジャミン・リベットの実験によるとそれは以下のようになる。僕が自由意志の結果、ルーレットで「赤」に賭けるとする。それを決める何ミリ秒か前に、既にコインを赤に持っていく為の筋肉を動かす命令が脳から伝達されている。この命令は誰が出したものなのか。それはまだ不明だが、意志は動きの後追い。何の為に自由に決めているという錯覚を覚えるのか。すべては成るようになっているだけなのに、何故意志というものが必要なのだ?何故自由という概念が必要となるのか。

 

物理現象は無駄を嫌う。ならば意志は無駄中の無駄。自由だ、という錯覚をして何か得となることがあるのか。そもそも意識がなければ、(意識が)自由だと感じ、その事で快感を得るという必要はないのだから。そしてこの需要に見せかけの自由が供給されて、どんなメリットがあるのか。行われているのは物質の動きの連鎖だけだというのに。「自由」が有ろうと無かろうと物質の運動の連鎖に特筆すべき違いは起こらない筈。全く訳が分からない。

 

何を食べようかなど決める必要はない。物質(人間)が物質(食料)を動かす(取り込む)だけだ。物理の法則により。

 

ただ、この壮大な無駄(自由)も物質の運動の連鎖として必然的に生まれたのだという事実は何を意味するのだろうか。いや、物理の法則だけから、次に何を食べたら良いのかは決まらないではないか。何かを食べるには物理の法則を外れる必要はない。しかし、物理の法則だけからは次に何を食べたらいいかは決まらない筈!

 

少なくともここに物理の法則を外れてはいないが、物理の法則だけからは決まらない次の一手を決定する何かが生まれなければならないのでは!

 

僕が生きようが餓死しようが、物理の法則には反しない。しかし生物である以上餓死する訳にはいかぬ。腹が減ってくる。次の一手は物理の法則だけからは演繹できない何かだ。『更科そばが食べたいな』。これは必然とは言えない願い。しかも物理の法則に反してはいない筈。餓死しようが生命を維持しようという行動を採ろうが、物理の法則からは演繹できないのではないか。生きたい。その願いはオートマティックではない。何故か何かがそう願い、僕はそのように動く。次の一手を採る。しかも物理の法則に反しない。大どんでん返し。

 

結局、「無意識とは?」「自由意志(意識)とは?」が気になり『無意識を変える』というところまで思考が及ばなかったのは、僕の意識によるのか、それとも無意識の結果なのか。それも分からない。

 

僕らが食べ物を摂取する。これをもっと簡略すると、ミドリムシが光の方に向かって泳いでゆく。ミドリムシに適応される物理の法則からすれば、ミドリムシが適当に泳いでゆく限り、問題ない。何も光の方へ特別動いてゆかなくてもいいのではないか。しかしそこで、腹を空かせ?光を求め動く、ここに生命としての意志を感じる。

 

いや、光の方へ向かって泳ぐ機械なら、今の技術で人間にも作れるだろう。この機械は生命体ではないのか?また、光に向かう機械のようなものが、有機体で出来ていればオートマティックの生物=ミドリムシになるのではないか?そこに意志のようなものは必要ではない。やはりミドリムシは生命体であると言っても、複雑な機械と一体何が違うのか?そこにやはり意志は特別必要ではないのでは。

 

そうすると、複雑な機械のAIも有機体(=人間)と質的違いがない、と言っていいのか?人間が複雑な機械に過ぎず、物理法則に淡々と従う有機体であるなら、複雑な機械そのもののAIは何故生命体ではないと看做されるのか?

 

 やはりそこに(AIに)意志が、意識が感じられないからではないか?生命体である限り、ミドリムシであろうと、そこに何らかの意志を持っていると思う(植物については、また後日に考える)。

 

 その意志とは何なのか?生命に必須の何ものか。機械と生命を分け隔てる何か。今のところ、そこまで論じられるほど考える時間がないので、続きはまた後日。

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