(福)さんが、「本質」シリーズ第二弾を書いてくださったので、調子にのって第三弾(*‘∀‘)
九月第一週の「テーマその場決め」の回の時、なんとな~く私が提案した、【哲学カフェとは】が採用されちゃったのですが、最初の方で進行役からの
「哲学カフェに期待することはありますか?」
という問いに対して、
・自分の盲点がわかる
・自分の枠組みからしか考えられないので、驚きたい
・みんなが何を言うのか楽しみ
・自分とは異なる意見の方と意見交換するのが楽しみ
というご意見がありました。
表現は違えど、「自分の枠を超えたい」という期待が多かったことから、
「哲学カフェの本質」とは
【自分の枠を広げる】
ということなのかな、と感じました。
また、【枠】とは、自分の価値観・固定観念とも言えるので、
人々は己の価値観・固定観念を壊したくて対話するとも言えるでしょうか。
では、どうして【自分の枠を広げる】ことを望むのか?
最近読んだ「無知の壁」という本で、
「人は自分の中にあるものをえこ贔屓している」という養老孟子氏のお話にとても深く納得しました。
例えとしては、自分の唾液でさえ、一度外に出したらもう一度口の中へ入れるのはイヤでしょう、と ……(;’∀’)たしかに。
これは【差別】問題へとつながる感覚でもあるのですが。
要するに、
【自分の枠を広げる】ことを望む、ということは、「これは【自分の中】」と認識できるものを広げ、自分がえこ贔屓できる範囲を広げようとすることなのではないでしょうか。
「自分」という枠がどんどん広がって、
「 自 分 」
になったら、とっても風通しがよくて自由な感じがします(*´ω`*)
えこ贔屓できる範囲が広がれば、なかよくできる範囲も広がるわけです。
【自分の枠を広げる】
という、哲学カフェへの期待が、イコール哲学カフェの【本質】だとしたら、
やっぱり哲学カフェは平和で楽しい遊び場だなー、と思います。
ちなみに、「哲学カフェに期待することはありますか?」という問いに対しての私の答えは、
「哲学カフェは、みんなが何を考えているのかを穏やかに聴き合い、語り合って遊ぶ場。そこに戦いが入らないことを期待しています」
でした。
とはいえ、
「いや~、哲学カフェの本質はそうじゃないよ!」というご意見もいっぱいあることと思います。
そんなご意見はぜひコメント欄へ♪
ここは平和な遊び場ですから~(*‘∀‘)
(ikue)