数年前、コロナなど全く予想もできなかった頃に『悪について』というタイトルの哲学カフェに参加したことがある。それはリアル・哲学カフェの方だったのだが。
もう自分が何を喋ったかはとっくに忘れている。他人の言ったことは猶更である。それでも、このタイトルをリクエストしたのは僕自身だったのは覚えている。
何故『悪』だったのか。『善について』などは話したくもなかった(西田幾多郎のファンの方にはごめんなさい)。ひとは幾つぐらいになったら『悪』に関心を持つようになるのだろうか。こどもは何歳かになると初めて「嘘をつく」ことを覚えるらしい。つまり知能レベルがある一線を越えると「悪」の地に足を踏み入れる。「善」は正しいことが確約されているから、その存在意義は問われることがない。一方「悪」はあの手この手で出自の正当性を訴えようとする。
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」(byレフ・トルストイ)というフレーズがあるが、幸福な家庭を「善」に、不幸な家庭を「悪」に置き換えても通るのではないか。
「善」は能天気な知的発達障害。一方、「悪」は皆に断罪されるから、世界に対抗するため頭を使わざるを得ない。そして「人畜無害」=「善」vs「異能者」=「悪」の戦いは常には正義が勝つとは限らないので、人々は余計「善」に味方し「悪」を嫌悪するようになる。
「善」に全幅の信頼を寄せる心は思考停止を起こし、ただひたすら全知全能の「神」に帰依する。一方の「悪」を奉じる者は「自分の頭」で考え、苦しまねばならない。命さえ懸けて。どちらがより「生きている」と言えるだろうか。
二つの帝国は世界を二分する。
夜―大人―都市―狡猾―酒―モノクロ―文学―悪。
昼間―こどもー自然―素朴―お菓子―天然色―道徳―善。
そうこうする間に、哲学カフェでは朧気ながら「悪」の形勢が悪かったようなことを思いだした。「悪」を擁護する意見はほぼ見当たらなかったのではないかと思う。
——悪とは、道をそらせるもののことである。
ということは人間のデフォルトは善になるのか。また人生で自分の思っていた通りの道を歩んできた人間は少ないのだから、人は何かしら皆、悪に魅入られていると言ってもいい。悪を自分と全く袂を分かつものとして糾弾できる人はいない。或いは自分の中の悪を、意識の底の底に沈めて、沈めたことすら思い出せないでいる。
——悪は善のことを知っているが、善は悪のことを知らない
善は皆に傅かれるだけに悪のことなど眼中にない。悪は理路整然と事態を把握し、身の振り方を考える。ただ悪には焦りがある。悪は善になることができるが、善は何が悪くて何が良いのさえも分からない。だから善がその場に踏みとどまるのは困難だ。なし崩し的に善はその面をつけたまま悪の地に足を踏み入れてしまう。知は力だ。
——自己認識をもっているのは、悪だけである。
そういうことだ。神はちゃんと起きているのだろうか。鏡に映った姿を自分だと分からないのは善。もはや憐れみを覚えるのではなかろうか。知能と自己洞察力は比例するから悪は支障ない。目も当てられないのは善の無邪気さ。
——悪の手段のひとつは、対話である。
悪は知能犯だ。暴力だけに訴えるわけでもない。人の内部をまず自陣に引き入れる。善は裸でいるが、悪はビシッとスリーピースのスーツを着ている。そして言葉のキャッチボールを愉しむ。しかし、最後に正体を明かす。そのときには終わっている。手遅れだ。
哲学カフェは論理の展開を楽しむ人が多く、理屈から言えば悪は糾弾されて、おしまいおしまい、だったと記憶している。悪はひとつの情念である。いや、方法であろうか。思想ですらない。フランツ・カフカ、悪の操觚者。
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