本質シリーズ第三弾から大分間が空いてしまいましたが、調子に乗って第四弾です。
9月のテーマその場決め「哲学カフェ」の回で、おなごテツの特徴について問われた時、私は「キャッチボールではなく円陣パス」と答えた記憶があります。
良い対話はキャッチボールに例えられ、良くない対話はドッジボールに例えられることがあります。キャッチボールでは投げ手が受け手に向かってボールを投げ、受け手はしっかり受け止めてから投げ返します。人に当てることを目的としたドッジボールよりはるかに平和的なやり取りです。ただ、投げ手と受け手が交代するとは言え、投げ手は投げることに、受け手は受けることに専心します。
これに対し円陣パスでは、誰がボールを受けるかわからないままふわっとボールを上げ、受け手は受けると同時にまたふわっと上げます。それらの動作が連続して何となく対角線状にボールが回っていくのです。
おなごテツでも、もちろん普通の哲学カフェ同様挙手した方が進行役に指名されてから話し出すのですが、話の転がり方が円陣パスみたいだと思っていました。「聞く」と「話す」が一つの動作のように感じられたからです。前の人の話の内容をきちんと受けてというような明確な流れを意識することなく、それでも落ちることなくボールが運ばれていきます。
もう一つ思い付いたキーワードがWe-modeです。
We-mode、即ち我々モードとは、他人事ではなく自分事として捉えようというようなものとは少し違います。
人間が他者を理解する際に、「あなた」と「私」ではなく、どちらも「私達」の一部として、刻々と変わる状況における動的な相互作用によって認知するという考え方です。このような集合知は豊かな他者理解をもたらし、単なる観察者の視点では手に入らない認知を可能にすると言われています。
以前リアルの哲学カフェでお世話になっていた哲学科の先生から先日このお話を聞いた時、おなごテツってWe-modeの世界?と思ってしまいました。ちょっと飛躍しているかもしれませんが。
その先生からは、We-modeと現象学の関連性についてもお話をうかがいました。ミシェル・アンリや木村敏による「生の現象学」では、主体と実在という二項対立から出発せず、両者の「あいだ」から出発し、「あいだ」から二項が派生するのだそうです(現象学に詳しい方、理解が間違っていたら教えてください)。
「あなた」と「私」としてではなく、「話し手」と「聞き手」としてではなく、その「あいだ」から、動的かつ相互に作用する力によって新しい認知が生まれていく、私はそういう印象をおなごテツに抱いているのかも。
タイトルに「本質」と書いたのにいつの間にか「印象」になってしまいました。「それってあなたの感想ですよね」と言われたら、あっさり認めてとっとと論破されようと思います。