なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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ギュゲースの指輪--Why be moral?問題 --

先日開催された「嘘をつくのはいけないこと?」ワークショップ、考えをすり合わせることの難しさや面白さを実感すると同時に、道徳や倫理について考える時間になりました。

倫理と言えば避けて通れないのがWhy be moral?問題、「なぜ道徳的であるべきか」という問いです。古くはプラトンの『国家』において、ギュゲースの指輪という伝説を基にこの問題が取り上げられています。

ギュゲースの指輪とは、自在に姿を隠すことができるようになるという伝説上の指輪です。プラトンの兄であるグラウコンは、ギュゲースの指輪を持っていても何もしない人(貧しいまま人生を終える人)と、誰にもバレることなく悪事を尽くして億万長者や成功者になる人と、どちらが幸せかと問います。これに対しソクラテスは、たとえ富や権力を手に入れても精神が汚れては本当の幸せは得られないと答えます。

Why be moral?問題で重要なのは、誰も見ていないからと言って悪い事をしてはいけないという教訓ではありません。そもそもこの指輪を嵌めるというのはどういうことなのか、道徳とは何を前提にして決められるのかというような問いかけであり、この問題に対して以下のような立場から様々な議論が展開されています。

・そもそも道徳は存在しない。
・道徳は生存するための反応の一つである。
・道徳は何かのための手段ではなく、それ自体として価値を持つ。
・道徳と理性は切り離せない。

それぞれに主張と反論があり、矛盾の指摘と解決方法があり、その流れを追っていく内に、自分が道徳をどのように捉えているのかが浮き彫りになっていきます。

Why be moral?問題は、一見すると「人の物を盗ってはいけないのは何故か?」と同類に見えますが、そのような具体的な問いとは一線を画します。これについて『なぜ道徳的であるべきか』(杉本俊介著)では、この問題は「本当にこの世界は存在しているのか」という哲学的問いと同様であるとされ、「常識的真理をあえて問うことで、人々を再考させる機会を与える」と述べられています。また同著では、この問題の前提条件について以下のような論点が紹介されています。

・主語の不在(「Why shoud I(we) be moral?」ではない)。「なぜ道徳的であるべきか」は、「なぜ人々は道徳的であるべきか」「なぜ道徳が存在すべきか」「なぜ私は道徳的であるべきか」をまたぐ問いなのでは?
・「べき」の解釈。「なぜ道徳的であるべきか」と「なぜ道徳的であるか」は別の問いではないか?
・インモラルとアモラルの問題。「道徳的に不正な行為ではなく正しい行為をすべき理由」ではなく、「道徳を気にかけない行為より正しい行為をすべき理由」なのか?
etc.

Why be moral?問題に関しては、プリチャードのジレンマや永井・大庭・安彦論争など、興味深いトピックが色々あります。全部解説すると物凄く長くなるので(きちんと説明できないだけだろうというツッコミはさておき)、興味のある方は調べてみてください。

ここで一句

馬肥ゆる 理屈も肥ゆる メタ倫理

お粗末でした。

(福)