それは雨が降る初冬の夜の事だった。普段はひっそりとしたN物理学研究所の周りに、場違いなサイレンを騒々しく鳴らしながら四、五台のパトカーが集まって来た。
「ここに一ヶ月ほど前から、ひとりの男性が監禁されているとの通報を複数受けた」
車から降りた寺澤警部補は、何事かと驚いて出て来た面持ちの白衣の男に告げた。
「事情を聴こう。だが、とにかく安否を確認したい」
「雨も降っていますし、こちらへどうぞ」
白衣の宮田研究員は、来るべきものが来たという面様で、警察官たちを中へ引き入れた。
「出入口はここしかないのですか?」寺澤警部補はセキュリティの厳しそうなドアをくぐりながら宮田研究員に尋ねた。
「ええ。非常口を除けば」
「単刀直入に言おう。坂上明利。君のところの研究員だね。ご家族から捜索願も出ている」
「こちらも何も隠すことはありません」宮田研究員は続けた。
「唐突ですが刑事さん、シュレーディンガーの猫ってご存じですか?」
寺澤警部補は入庁前、N大学の工学部を卒業していたので多少の知識はあった。「放射性物質が一定の時間後、崩壊すると、密室の毒薬がばらまかれ、中にいた猫は死ぬ。崩壊が起こらなければ猫は無事。そしてそのどちらになるかは確率1/2ずつ。問題は、一定時間後、密室を覗くまでは猫は生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせの状態にあるということ。しかし、ふつう猫は生きているか死んでいるかのどちらかだ。このパラドクスをどう解釈するか。だよな?」寺澤警部補はドヤ顔をして宮田研究員を見た。
「よくご存じで。その通りです。ただ、猫の代わりに人間が密室にいたらどうなるか。実際に実験をしたいと坂上君は言いだしまして…………」
「何?黙ってやらせたのか?そんな馬鹿な!それは自殺教唆罪に値するぞ!」警部補は語気を強めた。
宮田研究員は首を振りながら答えた。「いや、密室の中を覗くまでは坂上君はあくまで、生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせ。だから彼は自殺を完了したわけではない。死体を発見しないことには私は罪に問われない。そして、まだ誰も中を覗いていない。1/2の確率で彼は無事かもしれないのだし……」
「何?密室の中を覗いた瞬間に坂上さんは〈死〉状態に収縮するかもしれない。そしてそれを確かめる、安否を確かめる役目は……私たち警察。ということは彼を殺すとしたら……それは私たち警察になる!」
「ですから、その確率は1/2。生命の安全を第一に考えるなら、このままこの場はお引き取り下さい。そうして下さっている限り、坂上君は〈死〉に収縮してしまうことはない。そう、この先ずっと……天寿を全うするまでは」
そう嘯く宮田研究員に宮澤警部補はもはや、言葉を失っていた。夜の雨は一層強さを増しているようだった。
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