なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

● なごテツからのお知らせ ● ←ここをクリック!


『漁夫とその妻』--欲望と倫理のレイヤ--

 グリム童話に『漁夫とその妻』というお話があります。ご存じの方もいらっしゃるかとは思いますが、 以下、簡単にあらすじを紹介します。

 貧しい漁夫がある日カレイを釣り上げたところ、そのカレイが実は王子様で、逃がして欲しいと嘆願された漁夫はカレイを海に放ちます。家に帰って妻にその話をすると、妻がお礼に頼みごとを聴いてもらうよう要求します。妻にせがまれて渋々王子の元に向かった漁夫の願いをカレイは叶えてやるのですが、妻の要求はどんどんエスカレートし、遂には自由に月や太陽を昇らせることができるように、つまり神のようになりたいと言います。カレイにその願いを伝えた後で漁夫が家に帰ると、元のあばら家に戻っていたというお話です。

 欲張り過ぎると結局すべて失う、というよくある教訓話のように見えますが、この王子、結構忍耐強く、立派な家から玉座まで様々なものを与えてくれます。王子が許せなかったのは現実的な欲望が肥大することではなく、「神のように」なりたいという、一線を越えたことだったのかもしれません。

 似たようなお話に、『三つの願い』というイギリス民話--木こりが樫の木の精に三つの願いを叶えてあげると言われ、夫婦で喧嘩した結果つまらないことに使ってしまうというお話--があります。人間の愚かさを示す寓話という点は共通していますが、ここでは夫婦の願いが現実的な欲望の外に出ることはありません。結末は美味しいソーセージが食べられましたで終わっており、あくまで日常の円環の中で物語が閉じているのです。

 子供の頃、1つだけ願いが叶うとしたらという話を学校でした時、「今から自分の願いがすべて叶う権利」と答えた記憶がある人、結構いるのではないでしょうか。その時点で既に一つ欲望のレイヤが変わってしまっているのですが、それでも多くの人は自分の利益を基準に考えていることでしょう(自分の得にならないことは望まないという前提)。『漁夫とその妻』の欲望はそういった日常的な損得から逸脱してしまったという点で、単なる教訓話ではない何かを考えさせてくれます。
 
 『21世紀の哲学をひらく』第12章「ナンセンスとしての倫理--コーラ・ダイアモンドの『論考』解釈」(河田健太郎著)では、コーラ・ダイアモンドの『論考』解釈で『漁夫とその妻』が用いられている部分について、以下のように述べられています。

ダイアモンドの考えでは、ウィトゲンシュタインの『論考』における倫理とは、ある意味ではこの漁夫の妻の望みのようなものである。(中略)彼女はもちろん、太陽を西から昇らせたいのかもしれないが、なぜ西から昇らせたいのかは彼女自身にもわからないだろう。(中略)彼女の望みに理由はなく、そして、世界の中の何かを変えることで満たされるものではない。(中略)ダイアモンドがウィトゲンシュタインの倫理として見出すのは、われわれがもつ世界を受け入れたり拒絶したりする意図とは幻想であり、そうした意図などはじめからもちえないということを自覚可能であるにもかかわらず、われわれはそうした幻想としての感覚から逃れられないであろう、ということである。

 結局、倫理ってそういうものなのかもしれません。

(福)