なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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反出生主義よ こんにちは

 先日の哲カフェ、『「いてもいいかな」と「いなくてもいいかな」』は不思議な味わいのカフェだった。筆者には未だに論点が分からず、これから述べることは全く場違いな内容になるかもしれない、ということを先に断っておく。
 この世に自分が「いなくてもいいかな」と思ったことが、一度もないとは言えない。特に子供だった頃に。恐らく何か嫌なことが、慢性的にあったのだろうと思う。「良いことが特になくてもいいけど、嫌なことがないほうが良い」と思っていたのだから、幸せな子供時代だったものだ。
 それから大人になって月日が経ち、『反出生主義』を奉じる人達と哲カフェで顔を会わせることになった。彼ら彼女らの被害感情と、彼らがその論理的整合性に確信を持っている様子を覚えている。その時はこちらには何の予備的知識もなく、論理的ディベートとはならなかったように記憶している。
 今、もう一度会ったら、聞いてみたいことがあるのだが、(人生の常として)もう二度と会うことはないのだろう。
 人が「生まれることは悪だ」という主張は、どこか「この世に自分はいなくてもいいかな」という呟きに重なるところがある。
 
 よく分からないまま哲カフェ本編は終了。雑談タイムへと移行。そこで『恐怖と魅力』を肴に時間を潰し、いつの間にか『苦しみと魅力?』にテーマが変遷。
 苦しみ自体に価値はないが、その後の快楽等が期待できるときに苦しみは魅力を持つ。たとえば夏クーラーの無い部屋でやった仕事のあとのビールが美味い。それが確約できるときに限り、苦しみも意味を持つ。苦しみ自体の意味は無いのか?の問いにやはりポジティブな答えは見つからなかった。
 苦しみ自体を味わうことは、それがよっぽど軽いもので、苦しみと呼べない程のものじゃないと、難しいのではないか。
 そうこうする間に雑談タイムもお開きとなった。ただネガティブなものを、そのもの自体を味わうものとして「悲しみ」があるということに気づいた。悲しみは苦しみと違って、そのもの自体を味わうことがある。楽しみが後にあろうがなかろうが、悲しみは美しさに彩られている。
 悲しい旋律の曲は、心の琴線に触れる。僕は子どもの頃から、そんな短調の曲が好きだった。反出生主義は僕だった。
 そして気付いた。前述の反出生主義の彼らも、この悲しみの旋律を人生から味わい生きているのかも知れないということを。彼らの憤りは、悲しみに昇華され、「もういなくてもいいかな」を呟く。その人生はある意味興味深く、魅力があるのだろう。何かに拘っているスタンス、あるいは無念感が伝わってきた。

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